日刊スポーツの大型連載「監督」の第7弾は阪神球団史上、唯一の日本一監督、吉田義男氏(88=日刊スポーツ客員評論家)編をお届けします。伝説として語り継がれる1985年(昭60)のリーグ優勝、日本一の背景には何があったのか。3度の監督を経験するなど、阪神の生き字引的な存在の“虎のビッグボス”が真実を語り尽くします。

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1985年(昭60)は波乱の船出になった。開幕した4月13日の広島戦(広島)は、延長10回の末、サヨナラ負けを喫した。吉田は37年前の敗戦を覚えていた。

「延長になった最後は1死二塁から代打福嶋(久晃)のライト線の打球を、真弓が懸命に飛び込んだけど捕れずに負けるんですわ」

たかが1敗では片付けられなかった。3番に起用したランディ・バースが3三振、二塁に復帰した岡田彰布がタイムリーエラーを犯した。抑えで投入した山本和行が打たれた。

吉田の守り勝つビジョンが崩れた初戦は“隠し球”にまであう悲劇だった。10回表1死二塁の好機に二塁走者・北村照文が離塁したところ、二塁手の木下富雄にタッチされた。

一塁コーチは並木輝男、三塁は一枝修平が立っていた。痛恨のミスでチャンスの芽がしぼんだ挙げ句、3-4のサヨナラ敗戦。逆に前年覇者の広島はV2発進とばかり盛り上がった。

今も内野のフィールディングには厳しくこだわることで知られるが、監督として二遊間のトリックプレーにかかったのだから内心穏やかではなかった。

しかし試合後、吉田の知らないところで、ある出来事が起きた。守備・走塁担当の一枝が、隠し球を見落としたことに「これはコーチの責任」と、コーチ全員に罰金を求めたのだ。

開幕スタートから罰金を徴収するなど異例の事態だが、指導者のほうが率先して責任をかぶった。後にチーム全体に知れわたって内部の引き締めにつながったといえるかもしれない。

サウスポー大野豊で完投勝ちした広島は、2戦目に同じ左の川口和久を先発に立てた。すると試合前に吉田のもとにきたバースがオーダーから外してほしいと申し出た。

バースは吉田が監督になる前の84年シーズンをもって解雇の方針で固まっていた。「走れない」「守れない」で戦力にならないと判断されたようだ。新任の吉田はその外国人を残留させた。

そのバースは開幕戦の大野に3打数ノーヒットで自信を失いがちだったのかもしれない。吉田はバースに対して「お前を3番から外すつもりはない」と本人の意向をはねつけた。

「わたしは『何を言うとるんや。ピッチャーの右左によって3番打者を替えるわけがないやろ』と、そんなふうなことを言ったと思います」

3日後の4月17日、伝統の巨人戦。奇跡の3連発が甲子園の夜空に打ち上がって、そのままバックスクリーンに吸い込まれていくのだった。【寺尾博和編集委員】(敬称略。つづく)

◆吉田義男(よしだ・よしお)1933年(昭8)7月26日、京都府生まれ。山城高-立命大を経て53年阪神入団。現役時代は好守好打の名遊撃手として活躍。俊敏な動きから「今牛若丸」の異名を取り、守備力はプロ野球史上最高と評される。69年限りで引退。通算2007試合、1864安打、350盗塁、打率2割6分7厘。現役時代は167センチ、56キロ。右投げ右打ち。背番号23は阪神の永久欠番。75~77年、85~87年、97~98年と3期にわたり阪神監督。2期目の85年に、チームを初の日本一に導いた。89年から95年まで仏ナショナルチームの監督に就任。00年から日刊スポーツ客員評論家。92年殿堂入り。

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