日刊スポーツの大型連載「監督」の第7弾は阪神球団史上、唯一の日本一監督、吉田義男氏(88=日刊スポーツ客員評論家)編をお届けします。伝説として語り継がれる1985年(昭60)のリーグ優勝、日本一の背景には何があったのか。3度の監督を経験するなど、阪神の生き字引的な存在の“虎のビッグボス”が真実を語り尽くします。

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アンビリーバブルな夜だ。1985年(昭60)4月17日は「猛虎記念日」。ランディ・バース、掛布雅之、岡田彰布の3人が、巨人槙原寛己からバックスクリーンにホームランを突き刺した。

前日16日のカード初戦も逆転勝ち。甲子園は4万5000人をのみ込んだが、吉田は「球場にいらしてたファンにも3連発を見逃した方が多いと思いますわ」と意外な事実を口にする。

「槙原の好投で6回まで抑えられ、7回表に1点とられて1対3になったので、お客さんがサーッと引き揚げた。わたしもニューヨークからゲストを招待していたが、そのご一行も立った。きっと見逃した人がたくさんいると思います」

2点を追う7回2死一、二塁、バースへの初球がスタンドインすると槙原がその場にしゃがみ込んだ。続く掛布の特大弾は1-1からの真っすぐを完璧にとらえる。

異様な雰囲気に包まれた中、打席の岡田は「狙ってバックスクリーンなんて打てんよ。ホームラン狙いなら引っ張ってる」と冷静だった。

「前の2人が左打者やったから、右にはスライダーやと思った。初球がスライダーだったので、やっぱりスライダーかと…」

1ストライクからその球を見据えて打った。どよめきが歓声に変わる。21年ぶりのリーグ優勝は、この一瞬に凝縮されている。

歴史的シーンをネット裏で見つめていたのは、日刊スポーツ評論家だった星野仙一。球界のドン・川上哲治に導かれて、NHK、ニッカンに所属し、この2年後、中日監督に就く。

「槙原は心の中で助けを求めているように見えた。これは推理ではない。現役時代に仲間がマウンドで立ち往生している時、ベンチのぼくに伝わってきたテレパシーだ」

投手心理を説いた上で「掛布に打たれた時点で巨人の首脳陣はマウンドにいくか、叱って気分転換させるか、交代させるべきだ。間接的配慮の欠如が、岡田にまで大ホーマーを食らった原因だった」と采配の生ぬるさを指摘した。

苦虫をかんだのは、その巨人ベンチにいた監督の王貞治。“世界の王”が神がかった本塁打攻勢で敗れた屈辱。試合後、しばらくベンチから動けなかった王は、うめくように言葉を絞り出す。

「信じられない負けが続く…」。【寺尾博和編集委員】(敬称略、つづく)

◆吉田義男(よしだ・よしお)1933年(昭8)7月26日、京都府生まれ。山城高-立命大を経て53年阪神入団。現役時代は好守好打の名遊撃手として活躍。俊敏な動きから「今牛若丸」の異名を取り、守備力はプロ野球史上最高と評される。69年限りで引退。通算2007試合、1864安打、350盗塁、打率2割6分7厘。現役時代は167センチ、56キロ。右投げ右打ち。背番号23は阪神の永久欠番。75~77年、85~87年、97~98年と3期にわたり阪神監督。2期目の85年に、チームを初の日本一に導いた。89年から95年まで仏ナショナルチームの監督に就任。00年から日刊スポーツ客員評論家。92年殿堂入り。

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