日刊スポーツの大型連載「監督」の第7弾は阪神球団史上、唯一の日本一監督、吉田義男氏(88=日刊スポーツ客員評論家)編をお届けします。伝説として語り継がれる1985年(昭60)のリーグ優勝、日本一の背景には何があったのか。3度の監督を経験するなど、阪神の生き字引的な存在の“虎のビッグボス”が真実を語り尽くします。

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吉田は1985年(昭60)に激しい優勝争いを演じる裏で、阪神電鉄取締役で西梅田開発室長の三好一彦と頻繁に密会を重ねる。前年の10月21日、吉田が監督就任オファーを受けたのも、この男からだった。

三好は全面支援を求めた吉田の後ろ盾になることを約束していた。85年のチームスローガン「フレッシュ ファイト フォア・ザ・チーム」も2人の合作だった。

吉田は「フレッシュ、ファイティングスピリット、フューチャー」、三好が「フェアプレー、ファイティングスピリット、フォア・ザ・チーム」を提案した。

三好は「チームの旗印を掲げながら、春の安芸キャンプからシーズンを通して戦いたかった。監督とはたまたま“F”が共通していた」とスローガン作成の経緯を明かす。

監督が極秘裏に本社幹部と会ったのは、主に遠征に出発する移動日。場所は大阪市北区の「ホテル阪神」(現在は福島区)で窓のない一室と決まっていた。

三好は「いつも窓がない“R”と呼んだ部屋でした」、吉田も「新聞記者にも見つかったことはありません」という。2人の動きは小津正次郎から代わった新球団社長の中野肇(はじむ)、球団代表の岡崎義人にも知らされていなかった。

現場サイドで把握していたのは、広報部長の室山皓之助1人だ。法大出身の阪神OB。「各階にあった“R”はバス、トイレがあるが、ルームナンバーのついてない会議室のような部屋でした」。

“三好メモ”によると初めて会談が行われた日付は、84年10月23日になっている。吉田が監督就任の当日にチーム方針だった「土台作り」について意見が交わされた。

85年の開幕を3日後に控えた4月10日(午後2時から同4時まで)に設定された場では「オーナー以下フロントは監督と一心同体」「土台作り専一」「長期的視野」「強固な信念」「挑戦」「一丸野球」「コーチ陣掌握」の7項目が確認された。

シーズン後も密会は続いた。チームの現状と課題、選手の状態、入れ替え、補強の必要性、翌年のキャンプ計画などが詳細に話し合われた。三好はその会談内容をオーナーの久万俊二郎に報告した。

4月下旬から5月上旬にかけて6連敗で4位転落したチームは、その後持ち直した。しかし優勝争いをしているにもかかわらず“三好メモ”(6月7日付)は厳しかった。

阪神電気鉄道のA4用紙には「ボーンヘッドが目立ち競り負けるゲームがあった」「勝ちゲームを落とした」「スキを与えてつけ込まれた」「ボール打ちが目立つ」「打線のつながりがない」と分析している。

メモの末尾には「広島の試合巧者ぶりを感じる」と付け加えられている。阪神は前年度の覇者だった広島に負け続けた。【寺尾博和編集委員】(敬称略、つづく)

◆吉田義男(よしだ・よしお)1933年(昭8)7月26日、京都府生まれ。山城高-立命大を経て53年阪神入団。現役時代は好守好打の名遊撃手として活躍。俊敏な動きから「今牛若丸」の異名を取り、守備力はプロ野球史上最高と評される。69年限りで引退。通算2007試合、1864安打、350盗塁、打率2割6分7厘。現役時代は167センチ、56キロ。右投げ右打ち。背番号23は阪神の永久欠番。75~77年、85~87年、97~98年と3期にわたり阪神監督。2期目の85年に、チームを初の日本一に導いた。89年から95年まで仏ナショナルチームの監督に就任。00年から日刊スポーツ客員評論家。92年殿堂入り。

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