日刊スポーツの大型連載「監督」の第7弾は阪神球団史上、唯一の日本一監督、吉田義男氏(88=日刊スポーツ客員評論家)編をお届けします。伝説として語り継がれる1985年(昭60)のリーグ優勝、日本一の背景には何があったのか。3度の監督を経験するなど、阪神の生き字引的な存在の“虎のビッグボス”が真実を語り尽くします。

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1985年(昭60)。開幕から好スタートを切った阪神が広島に勝てなくなった。5月23日の甲子園での一戦を主戦投手のリッチ・ゲイルで落とすと、7月17日までカード8連敗を食らった。

古葉竹識が率いた広島は山本浩二、衣笠祥雄のベテラン、高橋慶彦、山崎隆造の俊足巧打コンビ、達川光男、山中潔、木下富雄、長嶋清幸、小早川毅彦、正田耕三ら実戦派がそろった。

ピッチャーは大野豊、北別府学、川口和久ら先発に、金石昭人、高木宣宏、新人王を受賞する川端順らが投げた。前年リーグ優勝、日本一の自信もあってか、投打にバランスを保ったチームだった。

7月5日から首位で迎えた3連戦(甲子園)は初戦に敗れて2位に後退すると、その後しばらくは広島の後塵(こうじん)を拝した。5日は山本の11号ソロで反撃、衣笠が通算450号の15号、4000塁打を記録する完敗だった。

カード2戦目の6日は4-5で競り負け、3戦目は2-6で北別府に完投勝利を献上。対広島6連敗を喫すると、吉田は「広島は野球がうまい」と敵を持ち上げるほどだった。

スタンドからも「吉田のボケ!」「辞めろ!」と厳しい声が突き刺さった。オールスター直前の7月16日からの広島3連戦は、結果的に●●〇と負け越したが、吉田には密かな胸算用があった。

「首位広島に連敗で4ゲーム差に広がって、広島から3戦目が行われる岡山に新幹線で当日移動したんですわ。広島に5ゲーム差に離されるか、それとも3ゲーム差に縮めて前半戦を終えるかはポイントでした」

9日のヤクルト戦(甲子園)で、岡田彰布が左大腿屈筋挫傷を負っていた。16日の広島戦は先発したが、残り2試合はスタメンを外れた。18日は代わりに新人の和田豊が「7番二塁」で4安打3得点の働きをみせた。

この試合では、ランディ・バース28、29号、掛布雅之が22号ソロ、毎回20安打を集中し、平田勝男が4つの犠打を決めるなど11-4の大勝。中田良弘が5回、中西清起が4回を投げきった。

吉田が「全員野球だった」と締めた前半戦は、首位広島に3ゲーム差で巨人と阪神が続いた。折り返し点で2位が同率は48年((1)中日(2)阪神、広島)以来、リーグ2度目。阪神にとって4年ぶりの2位ターンになった。

「古葉の野球はソツがない。あの年は広島が一番強かったんじゃないかと思いますわ。ワンちゃん(王貞治氏)の巨人もいい選手がそろっていた。でも、わたしは5ゲーム差が3ゲーム差になって『こりゃいける!』と思ったんです」

そして吉田が何を考えたかというと、1週間のオールスター休みに行う甲子園練習だった。しかも個人練習ではなく、フォーメーションプレーを繰り返した。改めて全員が体で“一丸”を示したのだ。【寺尾博和編集委員】

(敬称略、つづく)

◆吉田義男(よしだ・よしお)1933年(昭8)7月26日、京都府生まれ。山城高-立命大を経て53年阪神入団。現役時代は好守好打の名遊撃手として活躍。俊敏な動きから「今牛若丸」の異名を取り、守備力はプロ野球史上最高と評される。69年限りで引退。通算2007試合、1864安打、350盗塁、打率2割6分7厘。現役時代は167センチ、56キロ。右投げ右打ち。背番号23は阪神の永久欠番。75~77年、85~87年、97~98年と3期にわたり阪神監督。2期目の85年に、チームを初の日本一に導いた。89年から95年まで仏ナショナルチームの監督に就任。00年から日刊スポーツ客員評論家。92年殿堂入り。

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