日刊スポーツの大型連載「監督」の第7弾は阪神球団史上、唯一の日本一監督、吉田義男氏(88=日刊スポーツ客員評論家)編をお届けします。伝説として語り継がれる1985年(昭60)のリーグ優勝、日本一の背景には何があったのか。3度の監督を経験するなど、阪神の生き字引的な存在の“虎のビッグボス”が真実を語り尽くします。

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史上最大の航空惨事が起きたのは、1985年(昭60)8月12日だ。午後6時56分ごろ。羽田空港を離陸した伊丹空港行きの日本航空123便が、群馬県多野郡上野村高天原山、御巣鷹の尾根に墜落した。

お盆休みの帰省ラッシュで、ほぼ満席の乗客509人、乗務員15人の生存は絶望視された。中には「上を向いて歩こう」が大ヒットした国民的歌手・坂本九ら有名人が含まれた。

阪神電鉄専務で、球団社長だった中埜肇(なかの・はじむ)と電鉄常務・石田一雄の名前が搭乗者リストにあった。移動日のチームは博多から上京し、夕方からの指名練習をこなしたが事態は急変する。

午後9時30分ごろ、都内宿舎「サテライトホテル後楽園」で球団総務から緊急連絡を受けたのは、チーム広報担当の本間勝だ。部長の室山皓之助は、OB会長の田宮謙次郎と銀座のすし店に出かけていた。

本間は「日航機墜落の情報は知っていた。球団からその飛行機に中埜社長が乗っているのはどうも間違いないという電話でした」と明かす。チームはそれぞれの場所にいたが、通信手段がない状況下でも宿舎から連絡を取ることに手を尽くした。

11日に博多で中日戦の勝利を見届けた中埜は、12日にいったん帰阪。午前中の常務会に出席後に上京、運輸省(現国土交通省)に出向いた後、再び大阪に戻る矢先だった。吉田は「福岡で社長に『チームと一緒に東京に行かれたらよろしいのに』と話した」と思い出した。

その夜の吉田は東京都文京区本郷の料亭「百万石」に招かれた。南海ホークスの名投手、元監督だった杉浦忠の夫人志摩子の実家が営んだ名店。相手先は、野球部の臨時コーチをしたことのある新日本製鉄大分から本社重役に栄転した知人ら3人だった。

計4人の宴席も中締めで2次会の六本木に向かうところ、吉田の元に日航機に中埜が搭乗していた知らせが届く。「………」。言葉が出なかった。入店はしたが、時間を置かずに席を立った。

一方、ホテルの本間は「宿舎にどんどん新聞記者が詰めかけて、外出先から帰って驚く選手と入り乱れた」。室山は「記者さんには『こちらからちゃんと選手に説明するまで取材しないでくれ』と話したんだけどな」とごった返した。

吉田が緊急記者会見に臨んだのは、日付が変わった13日午前0時20分。「信じられません…」。絶句し、二の句が継げない。そして13日の巨人戦(後楽園)からは6連敗を喫し、首位から転がり落ちた。37年前の衝撃。当時の監督の心境を問われた吉田は、少し考えた後で口を開いた。

「どうしていいかわからなかった」と…。【寺尾博和編集委員】(敬称略、つづく)

◆吉田義男(よしだ・よしお)1933年(昭8)7月26日、京都府生まれ。山城高-立命大を経て53年阪神入団。現役時代は好守好打の名遊撃手として活躍。俊敏な動きから「今牛若丸」の異名を取り、守備力はプロ野球史上最高と評される。69年限りで引退。通算2007試合、1864安打、350盗塁、打率2割6分7厘。現役時代は167センチ、56キロ。右投げ右打ち。背番号23は阪神の永久欠番。75~77年、85~87年、97~98年と3期にわたり阪神監督。2期目の85年に、チームを初の日本一に導いた。89年から95年まで仏ナショナルチームの監督に就任。00年から日刊スポーツ客員評論家。92年殿堂入り。

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