大型連載「監督」の第8弾は、近鉄、オリックスを優勝に導いた仰木彬氏(05年12月逝去)をお届けします。

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1989年(平元)の日本シリーズの対戦相手は巨人だった。監督は藤田元司。近鉄が3連勝で王手をかけた第4戦を前に緊急事態が起きた。初戦で完投勝ちを収めたエース阿波野秀幸に左肘の違和感が生じたのだ。

投手コーチの権藤博は、第1戦、4戦、7戦に阿波野を先発させるプランを立てた。権藤は阿波野を第5戦にずらし、第4戦の先発投手を相談した。仰木から出た名前は、若手で右の池上誠一だった。

「王手をかけていたとはいえ、巨人が相手で、3連勝の余裕をみせている場合ではなかった。わたしは小野しかいないと思っていました」

左の小野和義は、4年連続2桁勝利の12勝9敗1セーブだったが左肘痛を引きずっていた。シリーズの先発要員から外れているサウスポーの起用を提案された仰木は、その場で即答せずに東京ドームでの決戦前夜に外出した。

「小野にはそれなりに先発の話をしたが、仰木さんはいくら待っても帰ってこなかった。ようやく電話がつながったのは深夜だったが『明日、決める』という。わたしが小野に正式に先発を告げることができたのは翌日球場入りしてからでした」

第4戦は1点をリードされた6回に小野が崩れ、巨人香田勲男に0-5の完封負けを喫した。シリーズの流れは激変し、近鉄はそこから4連敗して日本一を逃した。

第3戦で勝利投手になった加藤哲郎が「今の巨人ならロッテの方が強い」と挑発的な発言をし、巨人の反抗につながったとクローズアップされた。しかし、舞台裏では投手の台所に異変が起きていたということだ。

選手起用は監督の専決事項だ。権藤も「権限は監督がもっているし、投手コーチとしての進言です。だから対立ではない。意見の衝突です」と打ち明ける。ただ両者の溝が埋まることはなかった。

権藤は契約年限を1年残して退団する。ネット裏で東海テレビ、日刊スポーツで評論家活動を続け、ダイエー投手コーチを経て、横浜ベイスターズ監督に就いた98年に38年ぶりのリーグ優勝、日本一に導いた。

仰木と権藤の関係をメディアは「確執」「対立」と報じた。それぞれに不満があったのは事実だが、仰木はそれを自ら公にすることはなかった。ただ監督の立場を正当化した上で「確執やケンカではない」とだけ言い残した。

その後の仰木はオリックス監督として、日本一の頂点に立った。投手を束ねたのは山田久志。次期監督を約束されてのコーチ就任だった。【寺尾博和編集委員】(つづく、敬称略)

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