大型連載「監督」の第9弾は、今年90周年の巨人で9年連続リーグ優勝、9年連続日本一のV9を達成した川上哲治氏(13年10月28日逝去)を続載する。「打撃の神様」だった名選手、計11度のリーグ優勝を誇る名監督。戦前戦後の日本プロ野球の礎を築いたリーダーは人材育成に徹した。没後10年。その秘話を初公開される貴重な資料とともに追った。

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1951年(昭26)にサンフランシスコ・シールズの春季キャンプに合流した川上がつけた日記には、本場米国の施設を目の当たりにしたときの驚きが記されていた。

「日本の球場と違い、休憩所の見事さ、豪勢なソファ、食堂など、まさにサービス満点。ダッグアウトは広くて、綺麗さ、また便所は総タイルばりで明るく、照明され、常時一人の便所で常に清潔に保っている。また女性ファンのための案内ガールズの更衣室、化粧室、休憩室が完備されてある(中略)。レディーファーストとは、まさに女性のパラダイス…」

川上は環境面の違いから、今では当たり前の男女平等、自由の国の雰囲気を感じとったのだろう。キャンプ初日の3月1日は雨、2日目は晴天とある。球場を2周したウオーミングアップ後の打撃練習では「藤村君(富美男=阪神)はどうもアメリカの球は重いのでバットに負けそうだ」とパワーの差を実感している。

異国でつけた川上日記を読んでいて気付くのは、すでに指導者の役割を意識していることだった。現場監督がもつ「権限」について言及している。

「トレーニングのときだけの時は、選手は冗談等言って、コーチをからかっているが、(監督の)オドールになると、選手はピリッとして、いつもと違う。実に監督の権限の強いのに驚く」

この年の川上は打率3割7分7厘で3度目の首位打者に輝いた。ただ約1カ月間の米キャンプで、自身の技術以上にチームを動かすマネジメントを身につけていた。それは「監督」としての心得と条件を受け止めていた。

「選手の個人的な話もよく聞き、私生活の悪い選手は注意するとともに、なおらねばすぐに下に落とす」「マッサージ及び故障の予防及び治療体制」「上のものは選手のコンディションを確実に知っていることが大事」「監督が投手を決めるのは必ずトレーナーやコーチの意見を聞いてからにする」「道具の管理、靴下及バスタオルの交換、洗濯」。

民主主義国だけに、監督と選手はフランクな間柄だと思ったが、それも間違いだった。練習メニューを指示するのはコーチの役目で、それを選手が忠実にこなした。オドールがキャンプ期間に姿を現したのは2日間だけだったが、だれも文句を言わない。監督は絶対的存在だったからだ。

川上 教える者は学ぶ者。教える側の人間が良くならなければ、人をまた良くしていけるはずがない。監督は「組織と人」の心になって、自分の向上を常に意識していなければ務まらないのではないだろうか。

また違う日には「監督がチームプレーの中心である」と指揮官がけん引する重要性を書き留めている。川上はまだ30歳の現役選手だったが、この発見が監督1年目に試みたドジャースのキャンプ地、初のベロビーチキャンプの実現につながっていくのだった。【寺尾博和】(つづく、敬称略)

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