大型連載「監督」の第9弾は、今年90周年の巨人で9年連続リーグ優勝、9年連続日本一のV9を達成した川上哲治氏(13年10月28日逝去)を続載する。「打撃の神様」だった名選手、計11度のリーグ優勝を誇る名監督。戦前戦後の日本プロ野球の礎を築いたリーダーは人材育成に徹した。没後10年。その秘話を初公開される貴重な資料とともに追った。

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川上が1年目から海外キャンプをしたのは、坂本九の「上を向いて歩こう」、石原裕次郎と牧村旬子のデュエット曲「銀座の恋の物語」などが大ヒットした61年だった。

初めてドジャースの米フロリダ州ベロビーチで合同キャンプに参加したチームはサプライズの連続だった。最初の驚きはロサンゼルスからキャンプ地に移動するのが専用機だったことだ。

ドジャータウンの広大な敷地には7面の試合ができるグラウンドがあった。多摩川の河川敷とは大違いで、マイナーを含めて300人以上が集まって「40人枠」入りをかけて競い合った。

川上 ベロビーチがわたしの野球の基盤になったのは間違いありません。現役時代は試合に負けても、自分がヒット2本を打てば救われた。でも監督になれば勝つことがすべてだった。フォア・ザ・チームといっても、どうすれば実現するか教えてくれる人はいません。わたしは(書籍の)「ドジャースの戦法」に自分の経験を入れてチームプレーを確立したのです。その基本を選手にたたき込むのは、監督、コーチの重要な仕事だと思いました。

環境面のスケールの大きさ、組織の在り方を学んだ川上がベロビーチで習得したのは“守りで攻める”という発想だ。顕著な例はバント処理にも表れた。

それまで無死一塁の場面では、投手が簡単にバント成功を許した。「ドジャースの戦法」では、投手が故意にコースを外し、一塁走者が離塁したのを狙って、キャッチャーが刺した。

また打者がバントの構えをした瞬間、一塁の王と三塁の長嶋が激しくチャージし、わざとバントをさせた後、二塁で封殺した。つまり守備側が主導権を握って攻撃を封じた。

日本のキャンプでは体作りから始まって、そのうち実戦形式に入っていくのがセオリーだった。大リーグでは、いきなり試合形式の練習が主体で、日米格差は明らかだった。

巨人はドジャースが引き揚げた後も練習した。大リーガーにとっては長時間練習する光景が奇異に映ったようだ。川上の「特訓」は大リーグでも“トックン”と野球用語として広まった。

川上 何事にも徹することが大事だと思います。猛練習も徹することによって壁を突き破ることができるのです。1人1人の個人が自分を磨き、自分に勝つことによって、チームの勝利につながっていく。わたしが巨人軍に導入したチームプレーの精神もそこにあります。

監督就任から1位、4位、1位、3位と試行錯誤した。V9が火ぶたを切ったのは5年目の65年だ。その栄光の時代を象徴したのが、王、長嶋のONコンビだった。【寺尾博和】(つづく、敬称略)

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