大型連載「監督」の第9弾は、今年90周年の巨人で9年連続リーグ優勝、9年連続日本一のV9を達成した川上哲治氏(13年10月28日逝去)を続載する。「打撃の神様」だった名選手、計11度のリーグ優勝を誇る名監督。戦前戦後の日本プロ野球の礎を築いたリーダーは人材育成に徹した。没後10年。その秘話を初公開される貴重な資料とともに追った。

   ◇   ◇   ◇   

新聞メディアが激流にある中、読売新聞が24年に創刊150周年を迎える。ニュースの情報源になる媒体だった「新聞」は、高度経済成長期に部数を急拡大させたが、インターネットを舞台にした新たなマスメディアの出現で岐路に立たされている。

エンゼルスからドジャース入りした大谷翔平の移籍先を巡って情報が錯綜(さくそう)したのもデジタル時代を象徴した。しかし「国民」「読者」の知る権利に正しく応える新聞の使命に変わりはない。

かつて“読売のドン”に君臨したのは務台光雄だった。“中興の祖”正力松太郎が死去した翌1970年(昭45)に後継社長に就任。川上巨人V9のまっただ中だった。務台は「読売新聞百年史」の巻頭で述べている。

「関東大震災後、読売新聞は破産状態になりましたが、七代目社長正力松太郎は社員、販売店と一丸となって奇跡的な立ち直りをいたしました。新聞戦国時代と呼ばれ朝日、毎日両関西系紙の攻勢が激しく、関東系各紙が次々に姿を消して行くなかにあって、ひとりわが読売新聞だけは、さらに両紙を凌駕(りょうが)せんとするに至ったのであります」

創刊から1000部に満たなかった発行部数が当時700万部を超えたことを説明している。戦後大阪に進出し、北海道、北陸の現地印刷、九州進出など、朝日、毎日などをライバルに、全国紙へとのし上がった苦闘がつづられた。

その“販売の神様”だった務台が、川上に宛てた手紙が残されている。消印は1958年(昭33)10月23日付。日本シリーズで水原茂が監督だった巨人が、三原脩が率いた西鉄ライオンズに3連勝4連敗を喫した直後だった。

この年は長嶋茂雄のルーキーイヤーだった。首位打者は田宮謙次郎(阪神)だったが、打点王、本塁打王で、最多安打を記録し、新人王に輝いた。日本シリーズでも「4番」を打った。

しかし、稲尾和久に4連投4連勝の離れ業をやってのけられる。まさに「神様、仏様、稲尾様」だった。主に6番を打った川上はすでに「引退」を決意していた。務台が手紙を投函(とうかん)したのは、日本一を逃した2日後のことだ。

しかも、赤色の「速達」のはんこが押されているから、巨人のスター選手として現役生活を終えた川上の手元に、1日でも早く自分の意向を届けたい気持ちがにじんだ。巻紙に筆で書かれた手紙をめくってみた。

「敬愛する

  川上哲治君」

務台は冒頭で日本シリーズで敗退したことに触れて「自分は巨人軍の敗退を悔やむものではない」とした上で「むしろ一般の予想をはるかに上回る立派な戦績を記録し得た努力こそ敬意を表するものである」とねぎらっていた。

川上は水原のもと打撃コーチを務めた後で監督の座に就く。務台が手紙を書いた巻物は、長さ2メートル60センチにも及んだ。川上の引き際を尊重し、巨人の将来を見据えてか、これ以上ない信任の辞で締めくくられる。【寺尾博和】(つづく、敬称略)

連載「監督」まとめはこちら>>