大型連載「監督」の第9弾は、今年90周年の巨人で9年連続リーグ優勝、9年連続日本一のV9を達成した川上哲治氏(13年10月28日逝去)を続載する。「打撃の神様」だった名選手、計11度のリーグ優勝を誇る名監督。戦前戦後の日本プロ野球の礎を築いたリーダーは人材育成に徹した。没後10年。その秘話を初公開される貴重な資料とともに追った。

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毛筆で達筆に書かれた迫力にあふれた張り紙には圧倒される。日付は1968年1月2日、巨人軍監督 川上哲治とあった。

一、吾等は野球技術の妙を体得しプレーすることが社会及ファンに対する報恩感謝であることを知る。

一、吾等プロの技術の妙は不断の習練と工夫の末得られることを知り妙の会得迄如何なる苦難にあふもその努力を怠らない

縦115センチ、横95センチ。監督の川上は毎年正月に、その年の目標を書き初め、都内自宅に張り出した。今でいう「チームスローガン」といえるものだ。

ペナントレースに臨む川上は、その年チームが向かうための精神と確固たる指針を示した。チームの一体感をさらに強固にするためのメッセージだった。

前年の1967年(昭42)は中日に12ゲーム差をつけて3連覇を達成した。それでも川上は手綱を緩めない。勝つことに執念を燃やしていた。

正月には必ず選手を都内の自宅に招いてあいさつを交わすと同時に、シーズンを通したスローガンを確認し合うのが、新春の川上家でのしきたりだった。

長嶋が、王が、森が、堀内が…、ほぼ全員がこの書を前に座った。そこには家族と一緒にあいさつに訪れる選手もいた。まさに“川上一家”だった。

川上が監督時代に行った改革の1つが、「管理野球」を導入し、確立したことだった。批判の的になったこともあった。だが、人を育て、共通の目標に向かって集団を動かすのに「管理」は必要だった。

川上 わたしがいう管理とは、「人作り」「人育て」で、個を磨き、組織として集結し、勝負の心がみなぎるチーム作りをすることだと思っています。1人1人の個性を十二分に発揮させた上で、集団の目標を達成することです。そのためには勝つことを自分の手柄にしようとか、自分の名声を上げようとすることが先に立つと難しい。わたしは自分を捨て切って、チームの勝利を優先したのです。

チーム内には「罰金制度」を敷く。以前からあったが有名無実だった。川上が初めて本格的に採用したといえる。遅刻、幹部批判、怠慢プレーなどには罰金を科した。

通算203勝のエース堀内恒夫も若手だった当時はしぼり取られたようだ。罰金は納会で選手に還元された。川上は好き嫌いのない公平な起用をするために、信賞必罰の必要性を感じていた。

勝ちゲームには賞金として「監督賞」を出した。それはベンチ要員にも分配された。試合に出場しなくてもヤジ将軍になったり、味方の選手に声をかけてチームの空気をもり立てた者は評価した。

川上は球団に増額を要求して高額な報奨金を乱発すると、選手がまひするのが分かっていたので少額にとどめた。あらゆる手法でチームを引き締めた。人心掌握は“アメとムチ”を使い分けた成果だった。【寺尾博和】

(つづく、敬称略)

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