大型連載「監督」の第9弾は、今年90周年の巨人で9年連続リーグ優勝、9年連続日本一のV9を達成した川上哲治氏(13年10月28日逝去)を続載する。「打撃の神様」だった名選手、計11度のリーグ優勝を誇る名監督。戦前戦後の日本プロ野球の礎を築いたリーダーは人材育成に徹した。没後10年。その秘話を初公開される貴重な資料とともに追った。

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勝てば官軍の監督業にあって、球団、本社のバックアップは欠かせない。川上が読売新聞社社長・正力松太郎から一喝されたのはV9スタートから2年目の1966年(昭41)6月2日の広島戦が契機だった。

北陸シリーズとなった金沢での一戦は、安仁屋宗八に完封されて0対11で大敗した。翌3日付の日刊スポーツでは、スタンドから瓶が投げ込まれて試合が中断し、騒然としたスタンドの様子を伝えている。

序盤から5点をリードされ、3回途中に3番手で24歳の高橋明を投入したが失点は止まらず、8回まで続投させた。川上は遠征から帰京後、正力から呼び出された。

正力の出身地・富山では快勝したから、大敗のギャップに腹が立ったのだろうか。「君はあの試合で私情をまじえた采配をふるった。2度やったら、この次はクビだ! わかったな」とクギを刺された。

若手に経験を積ませる意味合いもあったが、見透かされた。敵にスキを見せれば勝機は遠のく。私情を捨て、勝負に徹する-。参禅を勧められて「監督」を極めるのに、正力に反論するつもりはなかった。

プロ野球にミーティングを持ち込んだのは川上だった。個々の役割、目標を明確にするためだ。次世代で名監督になった森祇晶、野村克也らも“川上流”をならった。キャンプでリポートを提出させることもあった。

川上 わたしはミーティングを大切にしました。キャンプでは毎晩、試合前はたとえ5分、10分でも毎日やった。監督が目指すもの、その考え方や方針を常に全員に理解してもらいたかった。プロとしての普段の行動や自覚を促すことから、作戦面の確認や反省、励ましもある。コーチや選手の主張、意見を聞くことも大切にしました。

当時のキャンプはメディアがグラウンドに入ることを許された。新聞記者はフリーに取材ができた。川上は選手が練習に集中しやすいように取材制限を打ち出したが、メディアからは反感を買った。

日刊スポーツの治田恭男は「哲のカーテン」と記事にして皮肉った。イギリス首相チャーチルが第2次世界大戦後の欧州東西冷戦を「鉄のカーテン」といった言葉を引用した。取材陣との間に溝ができた。

バント、スクイズの作戦を多用し、判を押したかのような采配は「高校野球」「石橋をたたいて渡る」と陰口をたたかれて不人気だった。勝てば勝つほど「管理野球」は非難を浴びた。

川上 人を育てながら組織を築くには、それなりの「管理」が必要だと思っています。勝つことを自分の手柄にしよう、自分の名声を上げようとすることが先に立つとろくなことがない。放任主義は次に、またその次につながらない。わたしがいう「管理」は、人を育て、各自の個性を発揮させながら、共通した目標に向かっていく。そして集団の目標を達成することです。「管理」とは秩序を守るルールだと思っています。

ベンチャーともいうべき剛腕で、マスコミ界を切り開く正力は、勝つ組織を築いた“川上野球”を支持し続けた。【寺尾博和】(つづく、敬称略)

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