大型連載「監督」の第9弾は、今年90周年の巨人で9年連続リーグ優勝、9年連続日本一のV9を達成した川上哲治氏(13年10月28日逝去)を続載する。「打撃の神様」だった名選手、計11度のリーグ優勝を誇る名監督。戦前戦後の日本プロ野球の礎を築いたリーダーは人材育成に徹した。没後10年。その秘話を初公開される貴重な資料とともに追った。

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ゴッドファーザーは死に際まで執念を燃やした。勝負の“鬼”だった川上の最期を見守った長男・貴光(よしてる)は、名将のすごさを「あきらめない心だと思います」と語った。

「小さい頃から死ぬまで、とにかく飯を食べに、食べ続けました。亡くなる1週間ぐらい前も『うなぎが食べたい』ともらすんですよ。病院は体が弱っているから、もう本人の好きにさせてあげてくださいということでした。とにかく食べれば、まだ生き抜くことができると思ったのかもしれません。生きることへの執念を感じましたね」

哲治の父・伊兵次(いひょうじ)がギャンブルと酒におぼれて借金地獄ですみかを追われた。幼心に息子は涙に暮れる最愛の母ツマに告げる。

「かあさん、もう泣かんでよかよ。大きうなったら、こん屋敷、ぜんぶおっが買い戻してやっでね」

監督の第一義は「プロ意識の徹底」で、過酷な禅の修行で己を追い込んだ。“球禅一味”の境地は、私情を捨てる決意に表れる。徹底した管理野球で「人」と「組織」を掌握した行き先が名将への道だった。

「父(哲治)は生活する家も失って貧乏だったから、母親(ツマ)から『飯さえ食えれば死なんばい』と教えられて育った。食べることは生きることだと。王さんが『監督はおれよりよく食べる』と話したように、弁当の後で、弁当を食べるんですよ」

ノンフィクション作家の貴光は「趣味のゴルフも18番でひっくり返す。負けるギリギリでプレッシャーを感じるのに、逆に消してチャラにする。とにかく何事にもあきらめなかった」と感心する。

川上 わたしは貧乏だっただけに、やってのけないことにはしょうがなかった。ハングリー精神は子供の頃からありましたね。

1970年(昭45)に6連覇を遂げた直後、川上は辞任を申し出ている。

川上 巨人軍ばかりが勝ったのでは面白くない、長嶋と王がいれば、だれが監督をやっても勝てる、川上の野球はつまらないと、そんな声がわたしの耳にも入ってきた。日本のプロ野球はつぶれてしまうとまで言われました。わたしはプロ野球のあり方に徹し、命がけでやってきたのにと思うと、心に張り詰めたものがしぼんでいくような気がしたのです。

一瞬の心の隙間だったが、読売新聞社の最高責任者・務台光雄の説得で翻意する。死に際にも執念を燃やす監督は、「球際」という言葉も編み出した。宮崎キャンプの宿舎・江南荘の大広間にも張り出した。

川上 「球際」の野球は、わたしの造語でした。相撲の土俵際の強さから採ったものです。捕れない球でも飛びつき、グラブではたき落としてでも食い止める。土壇場ぎりぎりまであきらめない。粘り強い、高度なベースボール、高度なプレーがプロの魅力だと思っています。

監督就任当初の信条は「必勝」だったが、V3までが「常勝」、V4は「不敗」で、5連覇、6連覇からは「無敗」と変わっていく。勝負心は死ぬまでうせることはなかった。【寺尾博和】(つづく、敬称略)

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