海を渡る日本人アマチュア選手たちが増える中で、「ゴールドラッシュ」と化す市場をさまざまな視点で捉える連載拡大版。第2回は「過去」に焦点を当て、MLBのマイナーでプレー経験のある選手に現役時代を振り返ってもらった。
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現在、国内にはいくつかのエージェントが存在し、海外への野球留学も珍しくないが、20年前に自らの力でその夢をつかんだ野球少年がいた。駒大苫小牧の外野手として、巨人田中将大投手とともに2年夏は優勝、3年夏は準優勝に輝いた鷲谷修也さん(37)だ。「僕は一度ダメでも諦めない。アメリカでそのカルチャーが身につきました」。たくましく道を切り開いた。
高3冬、大学受験に失敗し文武両道の道を閉ざされると、米国留学を決意。願書と自らのプレーを録画したDVDを添えて、米国のいくつかの大学に送付。カリフォルニア州のデザート短期大学への入学を決めた。一番の目的は学業。野球は自己アピールのひとつだった。
入学までの約半年間で英語を猛勉強したが、現実は想像以上。「生活環境、勉強、全てが大変でした」。その中で、野球が一番の自己表現になった。「“甲子園に出て活躍した”なんて通用しない。でもグラウンドに立つと、プレーでアピールができたんです」。俊足巧打の外野手として存在感を示した。打撃も甲子園で150キロ近い球を打ってきただけに、すぐに対応できた。レギュラーをつかみ、チームメートに認められるとその輪に溶け込んだ。「大学への編入を目標に、野球も評価のひとつにしてもらうために必死でした」。早朝からウエート、授業、アルバイトに練習。5分でも時間があれば課題に取り組んだ。
野球は楽しくやれればいい。授業、練習にアルバイトと無我夢中の毎日で、1年目から4番、右翼手として4割近い打率を残し、MLB9球団から調査書が届く注目選手になった。08年のドラフト42巡目でナショナルズから指名を受けた。「生活できるのかな? アメリカに来た目的なんだっけ? といろいろ考えて断ろうと決めた。自信がなかったんですかね」。足元を見つめて決断した。2年目には打率3割をキープし盗塁数も増えるなど活躍。09年MLBドラフト14巡目で再びナショナルズから指名されると、周囲の勧めもありマイナー契約を結んだ。
10年に退団し帰国しても、挑戦は止めなかった。独立リーグ石川ミリオンスターズでプレー。11年現役引退後は猛勉強の末、12年上智大学へ編入。現在は外資系の会社に勤務し、新しい可能性を開拓中の日々だ。
海外に挑戦する球児へ、鷲谷さんは今、どんな思いを抱くのか。「言葉や学歴だけでなく『たくましさ』を身につけてほしい。慣れた環境から1回出てみると、自分のリミッターが外れいろいろなものが見える。楽しくなりますよ」。困難を切り開いてきた足跡は、楽しかったと振り返られる道だった。【保坂淑子】
◆鷲谷修也(わしや・なおや)1988年(昭63)10月3日生まれ、北海道登別市出身。駒大苫小牧では1年秋から外野手としてベンチ入り。05年夏は全国優勝、06年夏は全国準優勝を達成。卒業後は米デザート短大に入学。08年MLBドラフト42巡目でワシントン・ナショナルズから指名。この年は辞退したが翌年、再び同球団から14巡目指名を受けて入団。10年に帰国し、独立リーグの石川ミリオンスターズに入団。12年上智大に編入。現在は外資系の会社に勤務。右投げ左打ち。



