佐々木朗希投手(21=ロッテ)が「3・11」に投げた。12年前、東日本大震災で父や祖父母を亡くした少年が立派に育ち、日の丸を背負う。大観衆のみならず列島中が見守った。

小3の秋、人生初のマウンドでは想像もできなかった光景だ。周囲ではリンゴ栽培が盛んな、岩手・陸前高田市立米崎小学校の校庭にある、静かなマウンド。「あそこで最初に投げたの、朗希は大人になっても覚えてましたね。堂々としていました」。高田野球スポーツ少年団で監督だった村上知幸さん(53)は驚く。1イニングだけのお試し登板。3者凡退で奪三振もあった。

対戦相手の米崎リトル、大和田武也監督(43)は「それがね、覚えていないんですよ、全然」と笑う。佐々木の人生初マウンドだったことは、最近になって知った。「これからはここで投げる子、覚えてなきゃね。朗希君みたいにいつ化けるか、分からないから」。当時はそれくらい、普通の野球少年だった。

ただ、そうは思わない人もいた。三塁側で静かに見守った大柄な人。佐々木の亡き父功太さん(当時37)が、米崎小でのデビュー登板を観戦していた。功太さんは同じ頃、禁煙貯金に励んでいた。資金をため、家族と東京ディズニーランド旅行をしたいと友人に話していた。念願かなって訪れた夢の国では夜になっても疲れた様子を見せず、愛する妻子と楽しんだ。「朗希は将来すごい投手になる」と信じ、キャッチボールでも次男に強く投げ続けた。数カ月後の3・11など誰にも想像できなかった。

若くして地域のリーダーだった。佐々木は父のことを「僕が言うのもあれですけど、みんなに愛されていたんだなと思います」と尊敬する。「人生で一番泣いた」と友人たちに明かした日から、後悔しないようにストイックに生きてきた。身長は父より10センチ以上高くなり、父以上に知られる存在に成長した。

昨秋、帰省時に思い出のマウンドを再び踏んだ。当時のままではない。マウンドは校庭への仮設住宅建設で一度削られ、再び盛られた。12年が過ぎ、マウンドは生まれ変わり、自身は想像を超える投手に-。

岩手を応援したいと願い、岩手からも応援される。WBCへ挑む星に、地元では数百数千の寄せ書きが集まった。そこには、助走付きなら150キロ近くを投げ込むまで成長したという高2の弟怜希さんも、なぜか三角関数とともに書き入れた。

「ラムと留守番してますby弟」

愛犬のトイプードルが尻尾を振り、父たちが眠る故郷へ、誇り高き勲章を持ち帰る。次のマウンドは夢のアメリカだ。【金子真仁】

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