1993年(平5)9月22日、網膜剝離(はくり)の手術を受け、成功した。だけど、ボクサーが網膜剝離になったら試合できないことは知っていた。しかし、米国には、シュガー・レイ・レナードのように復帰したボクサーが何人もいた。迷っているボクにまた(夫人の)るみが助け舟を出してくれた。

「そんなん、やってみな分からんやん」。

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辰吉は現役続行の意思を示した。その熱い思いに大阪帝拳ジム・吉井清会長(故人)、帝拳ジム・本田明彦会長が応え尽力した。世界的な3人の専門医から完治証明をもらうなどし、復帰の手順を踏んだ。そして、94年7月2日、日本ボクシング・コミッション(JBC)管轄外の米ハワイでホセフィノ・スアレス(メキシコ)と復帰戦を行った。3回KO勝ちを飾った辰吉に、WBCは返上していた暫定王座を再び与え、JBCも特例で辰吉の現役続行を許可した。そして、同年12月4日、WBC世界バンタム級正規王者の薬師寺保栄(松田)との統一戦が名古屋市総合体育館レインボーホール(現日本ガイシホール)で実現した。

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網膜剝離の既往症のあるボクにJBCは「網膜剝離が再発、あるいは負けたら引退」という条件で薬師寺さんとの試合を許可した。入札の末、薬師寺さん側が落札して名古屋での試合になったけど、大阪であろうとどこでも王座統一のチャンスが来た。日本人の世界王者同士による初めての世界タイトル統一戦ということで、世間は戦う前から盛り上がっていた。ボクも、その対立ムードにマイクパフォーマンスで応えた。

「(ブランクは)関係ない。普通に戦えば当たり前のようにKOになるんとちゃう」「KOは1、3、5のどれか。今回は奇数のラウンドで決めようと思っている」「ボクが負けるなんて万が一もない。もし…、なんて言葉は凡人が言うこと」。2歳年上の薬師寺さんも「目は当然狙うよ。すっきり決着をつけて、引退させてやるよ」と応戦してきた。試合前日まで“舌戦”してきた。今考えるとホンマ失礼なことを言い続けたものや。

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試合は壮絶な一進一退の打撃戦となった。前に出る辰吉に対し、薬師寺も的確な左ジャブを当てながら応戦する。互角に見えた世紀の一戦は判定に持ち込まれ、116対112、115対114、114対114の2-0で薬師寺の勝利となった。試合終了直後、2人は抱き合い、辰吉が「いろいろ言ってゴメン。強かったよ」と薬師寺の耳元でささやき、薬師寺も「そっちも強かった」と返した。控室でも辰吉は「試合前に侮辱したことをわびたい」と勝者をたたえた。

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確かに薬師寺さんは強かった。実は試合の1週間ほど前に左手甲を疲労骨折していた。でも、これを言い訳には絶対したくなかった。勝者にも悪いし、弱いから負けたという、ただそれだけや。あの試合内容で「勝者、辰吉」と告げられたら、それを最後に引退したかもしれないけど、負けたままでは…の気持ちが渦巻いていた。

“3階級上”シリモンコン倒し世界王者返り咲き /辰吉連載8>>