元プロレスラーのアントニオ猪木氏(79)が、ロシア軍のウクライナ侵攻に緊急メッセージを発信した。2月28日、日刊スポーツの取材に「こういう状態は許されない」などとコメントした。

ロシアやイラク、北朝鮮などでプロレスを通じた平和外交を続けてきた同氏は現在、心臓の病気で療養中だが、世界各国のリーダーたちに責任ある言動を呼びかけた。

アントニオ猪木氏「ウクライナに平和を」緊急メッセージ「こういう状態は許されない」>>

   ◇   ◇   ◇

<解説>

88年、猪木氏は世界最強といわれたソ連のアマレス選手たちをスカウトするためモスクワに出向いた。当時、同国は「ペレストロイカ」(改革)を推進していたが、社会主義国のアマ選手を、プロレスのリングに上げるのは無謀な試みと思われていた。

猪木氏は国家スポーツ委員会の幹部や選手らとウオッカを飲み交わし、自ら技を実践して、粘り強くプロレスの魅力を訴えて信頼関係を構築。翌89年4月24日のプロレス界初の東京ドーム大会に、ソ連のアマレス3選手をデビューさせることに成功し、日米ソ3カ国対抗戦を実現させた。

プロレスには国家の思想というとてつもなく高い壁を越える力がある。身をもって実感した彼は、プロレスを通じた平和活動に人生のかじを切る。89年7月にスポーツ平和党を結党して参院選に初当選すると、同12月にはモスクワで初のプロレス興行も成功させた。

米国によるイラク空爆直前の90年12月には、湾岸危機で緊迫していたイラクに、自費でチャーターしたトルコ航空機で乗り込んだ。同国で人質となっていた在留日本人の家族46人も同行していた。猪木氏は現地でプロレス興行を強行し、地元の大歓声を浴びた。その2日後に人質全員の解放が決まった。

95年4月28日には拉致問題をめぐり緊張関係にある北朝鮮で「平和のための平壌スポーツ文化祝典」を実現させ、以降も批判を浴びながらも、北朝鮮との交流を続けた。誰もが避ける面倒な相手の懐にあえて飛び込んで交流を深め、問題解決に力を尽くす。それが闘魂外交。猪木氏の「燃える闘魂」は、今も燃え続けている。【首藤正徳】

◆アントニオ猪木 (本名・猪木寛至=いのき・かんじ)1943年(昭18)2月20日、横浜市生まれ。中学2年時にブラジルに移住。17歳で力道山にスカウトされ日本プロレス入りし、60年9月にデビュー。72年3月に新日本プロレスを旗揚げ。柔道五輪金メダリストのウィレム・ルスカ(オランダ)、プロボクシング世界王者ムハマド・アリ(米国)らとの異種格闘技戦でも注目を集める。89年に業界初の東京ドーム興行。同年に参院選に初当選。98年に引退試合。10年に日本人レスラー初のWWE殿堂入りを果たした。