北海道・石狩市出身で昨年9月からアメリカで活動中の13歳の天才ドラマーYOYOKAが、このほどロックの本場ロサンゼルス(LA)に移住し、新たな1歩を踏み出しました。9歳だった2019年にアメリカで人気のトーク番組「エレンの部屋」に出演したことは当時日本でも話題になりました。それからコロナ禍を経てようやく世界の大舞台に飛び込んだYOYOKAにアメリカ挑戦やこれからの活動、夢などを聞きました。

LAでの活動をスタートしたYOYOKA
LAでの活動をスタートしたYOYOKA

昨年9月に「ロックの本場のアメリカで挑戦したい」と両親と弟の家族4人で西海岸に移住。オークランドでの8カ月間の生活を経て、6月末にようやくLAでの新たな生活が始まりました。

「オークランドは大好きな場所でしたが、もっと音楽に挑戦し、色々な経験をしてみたいという思いから、音楽がより盛んなLAに引っ越してきました。まだ家が完全に決まったわけではありませんが、友人の所有する小さな空き家にひとまず落ち着くことができ、現地校にも通い始めたところです。LAでの音楽活動も徐々に始まっており、今月27日にはハリウッドで行われるジャパン・ハウス(外務省が世界に日本の魅力を発信するため設置した対外発信拠点)の設立5周年を記念したイベントにMIYAVIさんらと共に出演させていただくことも決まっています。まずはLAの色々なところで演奏がしたいですし、たくさんの方に聴いて欲しいです」。

LAに移り住むまでの8カ月間を過ごしたオークランドでは、公立のアート学校に通って音楽を専攻し、高校生と一緒にドラムを学んでいたと言います。

「渡米当初はLAかラスベガスに住むつもりで家探しをしていましたが、予算内でドラムを演奏できる家が見つからず、縁があって北カリフォルニアに住むことになりました。オークランドでは、友人宅にホームステイしながら7年生(日本の中学1年生)として、中高一貫のアート学校に通っていました。中学ではドラムではなくベースを学び、ドラムは飛び級という形で高校で学ばせてもらいました。最初、英語はまったく分からなかったけど、音楽を通じて友だちもできました」。

オークランドではたくさんの出会いがあり、新たなつながり、素晴らしいアーティストやミュージシャンたちとの共演などたくさんの良い思い出ができたと話すYOYOKA。

「ロックをメインにやってきましたが、学校ではジャズやブルースの授業もあり、ファンクも習うようになってジャンルが広がりました。ロック以外のジャンルを勉強できたのはすごく良かったです。ベイエリアでのライブやイベント、TVやラジオ番組にも出演したり、ジャズ・フュージョンバンドのKen Okadaグループのアルバム「SQUARE ONE」にドラマーとして参加したり、グラミー賞受賞アーティストのファンタスティック・ネグリートとコラボしたり北海道や日本にいては出会えなかった人たちにたくさん出会うことができ、助けられ、感謝しています」。

世界的女性ドラマーコンテスト「Hit Like A Girl」に応募したことがきっかけで、8歳の時に突如ブレーク。ドラムカバーしたレッド・ツェッペリンの楽曲「Good Times Bad Times」の応募動画が、世界各国のメディアや著名人の目に留まってオファーが殺到し、環境が一変します。

8歳の時に天才ドラマーとして世界で注目されたYOYOKA
8歳の時に天才ドラマーとして世界で注目されたYOYOKA

「総合優勝は逃しましたが、ウィークリーチャンピオンになりました。当時は著作権の問題で動画をYouTubeにアップできなかったのでビデオをVimeoにアップしたのですが、それをNPR(米ナショナル・パブリック・ラジオ)が見つけてYOYOKA特集が組まれたみたいで…。それと前後して、レッド・ホット・チリ・ペッパーズのドラマー、チャド・スミスさんやシェリル・クロウさんらたくさんの著名な方が、”この子のドラムすごい”みたいな感じで拡散してくれて、さらにレッド・ツェッペリンのボーカル、ロバート・プラントさんがカナダのラジオ番組で褒めてくれたのも大きかったです。アメリカだけでなく、イギリスのBBCとかブラジルのメディアとかたくさん取材を受けました」。

「エレンの部屋」には日本人としては異例となる2度の出演を果たし、アメリカ人のハートを鷲掴みにしたYOYOKA。

「特にアメリカからのオファーが多く、様々な番組から誘いがありましたが、ビザの関係で出られなかった番組もあり、ようやく2019年2月に「エレンの部屋」に出演することができました。1回目は番組のことをあまり知らなくて、英語も分からなかったので通訳の方がいてくれて何とかなりました。2回目の時は、すごい番組だと分かっていたので、すぐにまた呼んでもらえて本当に嬉しかったです。アメリカでのパフォーマンスはその都度トラブルが色々ありますが、なんとか乗り越えてきました。自分でははっきり覚えていませんが、移住前に下見で渡米した際に”こっちに来たい”と両親に言ったみたいです。自分的にはアメリカの方が自然体でいられて、のびのびでき、刺激もあり、アメリカに来て良かったと思っています」。

海外からのオファーも増え、アメリカでの活動も視野に入れていた矢先、新型コロナウイルスのパンデミックが起き、音楽活動が全てストップ。決まっていたアメリカのオファーもキャンセルに。

「アメリカでのライブやイベント、テレビ番組に出るためにビザを取ろうと考えていた時にコロナ禍になり、3回目のエレンの番組出演など全てなくなりました。私たちは北海道に住んでいたので、東京の仕事にも行けなくなり、コンサートも人との演奏もできなくなり、学校も2週間くらい休校になって…。それまでは忙しすぎるくらいだったので最初は「やっと休める!」という思いもちょっとありましたが、イベントやライブができないのはやはりショックで心細かったです。自宅スタジオからの配信ライブや、世界のミュージシャンとのリモートコラボなどオンラインでの活動は積極的にやっていましたが、リアルでお客さんがいてという感覚が忘れられなくて、さみしかったです」。

コロナ禍で考える時間が増えたことが、アメリカ移住を本気で考えるきっかけに。「娘がアメリカで思いっきり挑戦したいのであれば、親としてそれを全力でサポートしよう」と動き出したアメリカ挑戦は、家族にとっても大きな決断だったと父相馬章文さんは話します。

「まさか2年近くもライブ活動ができなくなるとは思っていませんでした。娘は傍から見てもフラストレーションが溜まっているのが分かりました。親としてもせっかく自分の実力によって色々な経験と成長ができるチャンスを誰のせいでもないですけど失ってしまったのは悔しかったです。10歳からの2年間は大きいですよね。その時間は取り戻せませんが、やはりより才能を伸ばせる場所を考えるとアメリカでチャレンジした方が良いのではないか、さらに言語のことを考えると12歳くらいまでに渡米しないとネイティブに近づくのは難しいだろうということもあり、色々悩みました。私は長年公務員もしていましたし、娘も日本の事務所にも所属していました。しかし、彼女のドラムによって世界中の人たちが元気や勇気をもらってポジティブなマインドになったという声をたくさん聞いていましたし、何より悔いのないようにアメリカで挑戦してみたいという彼女を全力で応援してあげたかったです。ひと時のムーブメントとか年齢とか限定的なものではなく、確かな実力、彼女が持つ技術やグルーヴ感、音や人柄も含めて最近はより本物になってきたので、結果としては当時のまだ未成熟な状態で注目されるより、今こっちに来たことは良かったと思います」。

シンディ・ローパーやフォールアウトボーイ、日本でもCharや奥田民生、東京スカパラダイスオーケストラ、三浦大知ら大物アーティストとも共演。大舞台でも堂々と楽しそうに演奏する姿は大人顔負け。

しっかりスティックを握ってドラムセットの前に座る子ども時代のYOYOKA
しっかりスティックを握ってドラムセットの前に座る子ども時代のYOYOKA

「注目され始めた当初はまだ子どもだったので、状況がまったく分かっておらず、”わー、なんだろう”みたいな感じでした。レジェンドと呼ばれるようなすごい人たちとも一緒に仕事をさせていただきましたが、当時の私は知らなかったアーティストもいて、後からめちゃくちゃすごい人だったと知ることも多かったです。曲は聴いたことがあるけど、その人のことを良く知らないまま、ライブでは普通に演奏していました」。

ドラムを始めたのは1歳半の時。自らドラムに向かってハイハイする子どもだったと言います。

「両親が音楽ユニットをしており、家がレコーディングスタジオにもなっていたので、色々なミュージシャンがきて演奏するのを子どもの頃から見ていました。両親はドラムをほとんど叩けませんが、スタジオにたくさん楽器がある中なぜか私はいつもドラムの方に向かってハイハイしていったみたいで…。興味があるのかと思い、両親がドラムの椅子に座らせてくれたのが始まりだったそうです。父が座った上に私を座らせて手だけ動かし、足は父にやってもらう感じでした。初ライブは地元のお祭りに家族で出演した4歳の時です。ドラムセットに体が隠れてスティックだけが見えるので、お客さんはどこから音が出てきているんだと不思議がっていたみたいです。5歳の時に正式に家族バンド「かねあいよよか」を結成し、札幌のライブハウスやお祭り、福祉施設など様々な場所で演奏するようになりました」。

家族バンド「かねあいよよか」としても演奏活動をする相馬さんご一家
家族バンド「かねあいよよか」としても演奏活動をする相馬さんご一家

近い目標はLAでもっとたくさんライブをやっていろんな才能のあるミュージシャンとセッションすること、そして自身のオリジナルアルバムを作ることだと言います。

「自分の音楽ジャンルは基本ロックなので、1度は本場LAで挑戦してみたいという気持ちが強かったです。自分のバンドもまだないのでこれからバンドメンバーが見つかるもしれないし、これからも1人かもしれないし、先のことは分かりませんが、色々体験したいし、何かあればなんでもやってみようと思っています。将来的に色々な人とフィーチャリングしたり、もっと自分の曲を作ってアルバムもリリースしたいです。コロナ禍で機会を逃してしまい、まだレッド・ツェッペリンの方々にもお会いできていなくて、いつかセッションして直接お礼が伝えられたらいいなと思っています」。

YOYOKA公式サイト http://yoyoka.jp/ (写真はすべて本人提供)

【千歳香奈子】(ニッカンスポーツ・コム/芸能コラム「ハリウッド直送便」)