テレビ東京を退社し、フリーに転身してもうすぐ1年になる。テレビプロデューサー佐久間宣行(46)。地上波から動画配信まで、笑いのヒット番組を量産する圧倒的な仕事ぶりは“佐久間宣行3人いる説”のギョーカイ都市伝説も生む。放送メディアのキーパーソンだが、意外にも「テレビよ永遠にという思いはない」という。【取材・梅田恵子】

★オールナイトニッポン0

そろそろ管理職、という人事の足音を感じ、現場主義を貫いての退社だった。フリー1年目を振り返り、「会社員じゃなくなるとこんなに面倒臭いことが増えるんだと思い知り、会社への感謝をあらためて感じます」。一方で「企画が通るかは社内の数人の評価で決まることが多かったので、さまざまなメディアに評価軸が広がって気楽になった。石橋をたたいても渡らない慎重派な性格がちょっと変わりましたね」と話す。

理想的な円満退社で「ゴッドタン」「あちこちオードリー」などの人気番組はすべて継続。新番組も立ち上げながら、NHK、民放各局を飛び回り、自身のYouTubeチャンネルも運営、出演する。その仕事ぶりに同業者たちは「3人いるのでは」と舌を巻くが、「無我夢中なだけ。いただいた仕事の締め切りを必死で守っていたら1年という感じで、僕自身ペースがつかめていない」と笑う。

このインタビューは、飛び回っている放送局のひとつであるニッポン放送で行われた。テレ東在籍時代の19年から「佐久間宣行のオールナイトニッポン0(ZERO)」(水曜深夜3時)のパーソナリティーも務めている。少年時代からラジオの虫。あこがれだった番組でリスナーと交流できる時間をひときわ大事にしている。

「ラジオを始めて1年でコロナ禍になった。ラジオがあって、リスナーとくだらない話で盛り上がれる1時間半があるというのは、本当に心の支え。ラジオを持っていると、日ごろの失敗が失敗じゃなくなる。全部ラジオの話のネタになるからまあいいかと思える。人生がめちゃくちゃ気楽になって、僕の新しいキャリアを開いてくれました」

★企画書書きまくる日々

「作り手」の側で売れっ子になったが、この人の原点として常にあるのは、面白いものを見たいという「受け手」側のスピリッツだ。子どものころから、マンガ、本、テレビ、映画などあらゆる創作物鑑賞のマニアである。

「フジテレビの『夢で逢えたら』(88~91年)とか、伊集院光さんの深夜ラジオとか。こんなに面白いものがこの世にあるのかと夢中になりました」

自分がテレビの仕事をするとは夢にも思わなかったという。

「そういうのは、学生時代に映像撮ったり劇団に入っていたりする人がやるものだと思っていたので。『カノッサの屈辱』とか『カルトQ』とか、すごい深夜番組を次々と生み出した90年代のフジテレビ黄金時代なんか、すげぇな、天才の集まりだなって。あれを見て『俺もなろう』とは思えなかったんですよ」

オールジャンルで就職活動をする中、あこがれのフジテレビを記念受験し、人生が変わった。事業部の面接で学生時代に見まくったエンタメの面白さを語ったところ、面接官から「『面白い』とは何かをそれだけ説明できるなら、制作部門で受けた方がいい」と勧められた。その面接官が「踊る大捜査線」など数々のヒットドラマを手掛けた亀山千広氏(現BSフジ社長)だったというのもドラマチックだ。希代のヒットメーカーに背中を押され、そこから就活に間に合ったテレ東に採用された。

しかし、「入ってすぐ絶望した」という。

「夜遊びがかっこいい、みたいなマッチョな時代。先輩に飲みに連れ回されるのが性格的に合わなくて、嫌で仕方なかった」

第二新卒扱いになる入社3年目までに辞めようと覚悟を決めた。

「どうせ辞めるなら、パワハラな誘いは全部断ろうと。そしたらきれいに嫌われて呼ばれなくなって(笑い)、その時間に企画書を書きまくる日々が楽しくなってきたんです」

やたらと企画書を出す若手がいると社内で知られ始め、2年目でネタ特番のディレクターというチャンスをつかんだ。ここで出会った劇団ひとり、おぎやはぎと、後に「ゴッドタン」を作ることになる。辞めるはずの3年目には、異例の早さでプロデューサーに抜てきされていた。

★発明や美しさある番組

今やテレビ界の名物プロデューサーとなったが、本人は「裏街道です」ときっぱり。「旅、グルメ、人情が正面のテレ東でお笑いをやってきた僕は、ど真ん中じゃないんです」。

作りたいジャンルを廃れさせないよう、「マジ歌選手権」のライブ開催や「キス我慢選手権」の映画化など、会社をもうけさせるビジネス展開に知恵を絞り、放送外収入のロールモデルを示してきた。予算で勝てないテレ東カルチャーがベースにあるのも強みだ。「よそと同じことをやっていたら勝てない。違うことを常に探しつづける癖は、テレ東育ちのおかげです」。

目指してきたのは「どこかに発明や美しさがある番組」だ。「視聴率は大事だが、視聴率をとっていても尊敬できない番組はある」。

数字から逆算した番組作りに発明はないとし、企画会議に視聴率表を持ち込んだことは1度もない。

情熱を注いできた制作現場はコンプライアンスと炎上社会のはざまで窮屈になるばかりだが、「過激な表現はやめたくない」と語る。

「無分別に人を傷つけるのはダメだが、『クレームが来るからやめよう』を混同する人とは戦おうと思っている。たとえシモネタでも、プロデューサーがびびったらダメだろうと」

そもそも自由度が減ったとは感じていない。

「例えば、BL(ボーイズラブ)のドラマは30年前にはなかなか難しかった。この時代だから広がった表現もあり、つまらなくなったとは思っていないです」

YouTubeなどの動画サイト、Netflixなどの定額配信サービス、SNSなどあらゆるメディアがテレビのライバルとなっている現状も歓迎している。

「僕は面白いものを作りたいだけで、番組がどこで流れようとうれしい人間なので、チャンスが増えてうれしいなと」

テレビよ永遠に、という気持ちは「ないですね」とあっさり言う。

「今も最強のメディアだし、生で大量に届くからできる祭りはまだ多くあるけれど、つまらない番組が残っていくなら配信でよくないですか?」

テレビの未来というより、「面白いもの」の未来に常に焦点がある人なのだ。

「戦わず、つまらないものが勝負に勝つより、面白いものが勝負に勝つ世の中であってほしい。その助けになる方に、自分がいたらいいなと思います」

▼「オールナイトニッポン」プロデューサー冨山雄一氏(40)

仕事ぶりを見ると、3人いる説どころか5人いるんじゃないかと思います。作り手として数々の人気番組を回し、自身のYouTubeチャンネルも週2回アウトプットし、テレビ番組にも出て、ラジオのトークも練り上げる。これだけでも3人いないと無理なのに、舞台、映画、動画コンテンツなどあらゆるエンタメを見る一流の受け取り手であり、奥さんと娘さんにお弁当を作る家庭人の姿もある。いつ寝ているんだろうと。僕のような年下にも物腰柔らかく、部活の仲間のように感じさせてくれる人です。

◆佐久間宣行(さくま・のぶゆき)

1975年(昭50)11月23日、福島・いわき市生まれ。早大卒。99年テレビ東京入社。「ゴッドタン」「あちこちオードリー」「ピラメキーノ」「ウレロ☆シリーズ」など数々の番組を手掛ける。19年4月からニッポン放送「オールナイトニッポン0(ZERO)」のパーソナリティー。21年3月、テレ東退社。フリーで活動中。

◆オールナイトニッポン

67年10月にスタートしたニッポン放送深夜番組。現在、深夜1時枠以外に、深夜3時枠の「0(ZERO)」、午後10時枠の「MUSIC10」「GOLD」など、オールナイトニッポンのブランドで多くの番組が放送されている。

※2022年2月20日本紙掲載