タレント関根勤(70)がデビュー50周年を迎えた。ゴールデンウイークには、関根勤芸能生活50周年記念公演「カンコンキンシアター35 クドい!~烏骨鶏のジジィ参上~」(4月26日~5月6日)を東京・銀座の博品館劇場で開催する。今月21日には単行本「関根勤の嫌われない法則」も出版する。デビュー時から変わらない若々しさとクドさを保つ、その芸風の秘密を聞いてみた。【小谷野俊哉】

★「なんか励ましに」

50周年の「カンコンキンシアター」は、1日にワンステージずつ。

「去年ね、日程的に1日2公演やっちゃったんですよ。次の日と、その次の日くらいにやっぱりね、ポテンシャルがちょっと落ちるんですよね、疲労から。今回はそれよりも1年、また年取ってますから。同じ11公演ですが、日数を広げて11日間でやります」

50周年公演だからと、特別なことはやらない。

「特別なことは、ないんですよね。毎年やってるもんですから。たまたま50周年なんで、それを冠につけようっていうね。50周年だからやるわけじゃないんですよ。毎年やってるわけなんですよ。ただね、50周年っていうと、いろんな皆さんからコメントいただいたりとかしてね。なんか大層なことになってて。今度のパンフレットもね、欽ちゃんと対談できるっていうんでね。50周年とかって冠つけるとみんなが動いてくれるんで、なんか励ましになりますね」

70歳になった。50年前と芸風が変わらない。

「これがね、分かんないですよね。変えようがないですよね。前に頻繁にぎっくり腰になってたんで、今はストレッチをやっています。ゴルフを1日楽しめるんですけども、次の日の、体の痛さは若い頃とは全然違いますね。今、ゴルフを毎週やってるんですけど、僕の行ってるところはカートに乗せてくれないんですよ。だから2万歩、歩くんですよ。これはもう結構な全身運動と体力を使いますね。前に肝臓は16歳、首は27歳とお医者さんに言われたけど、8年前に番組企画で心臓を検査して『冠動脈狭窄(きょうさく)』と診断されて、ステント手術を受けています。発症する前で本当によかった」

東京・高輪の出身。中学時代から、友達とプロの声帯模写のまねをして遊んだ。

「そのうちコツつかんでオリジナルができるようになったんです。千葉真一さんとか田村正和さんとか中山仁さんとかジャイアント馬場さん。それで高校時代は、友達といろいろな学園祭に出ていました。大学になって『目黒五人衆』っていうお笑いグループを組んで、自分たちで公演をやったりしてたんですよ」

日大法学部卒業後は、父親と同じ消防官になるつもりだった。ところが1974年(昭49)、大学3年の時にTBS「ぎんざNOW!」の「しろうとコメディアン道場」に出て、5週勝ち抜いてしまった。初代チャンピオンだ。

「青春の思い出に自分の実力がどのくらい通用するのかオーディションに行ってみた。そうしたら、5週勝ち抜いてグランドチャンピオン。でもプロになるつもりは一切なかった」

審査員を務めていた、今も所属する浅井企画創設者の浅井良二社長から声がかかった。

「プロでやってみないかってね。いや、自分なんて無理ですよって言ったんです。そうしたら『そんなことはない。コント55号を育てた天下の浅井が君の才能は保証するからやってみないか』って。そこまで言われたらね、もう舞い上がっちゃって、じゃあお願いしますって。勝ち抜いたすぐ次の週にはアシスタントとして司会のせんだ(みつお)さんの隣に立っていた。もう、むちゃくちゃですよ」

★“笑顔の青年”のまま

大学も卒業して、ラビット関根の芸名でタレントになった。77年に日本テレビのバラエティー「カックラキン大放送」のレギュラーになって、カマキリ拳法などで知られるようになってきた。82年に萩本欽一(82)のテレビ朝日「欽ちゃんのどこまでやるの!」(欽どこ)に起用された。

「萩本さんは、カマキリ男とか僕の芸風が嫌いだったんですよ。『うちの番組だけラビットってやめてくれ』って。僕が本名に戻したんです。『カックラキン』の殺人者カマキリ男は、今で言うと、江頭(2:50)君みたいな、ちょっと怖い感じ。それが、いきなり『欽どこ』のファミリー的なところへ出てきたわけですよ。不穏な空気ですよ」

気が付けば、今も続く盟友・小堺一機(68)と組んで“クロ子とグレ子”として、フリートークで人気者になっていた。

「小堺君がグレ子で、僕がクロ子。欽ちゃんいわく、『休憩時間で空いてるから、お前ら5分くらい好きなことやれ。面白かったらオンエアだ』って。だから、毎週オーディションみたいなもんでした。欽ちゃんからは『お前は100万円持ってたら100万円を見せびらかす芸をしている。5万円だけ見せて、残りの95万は持ってますよという芸をしなさい』って。やっぱり欽ちゃんは、いろいろと教えてくれました」

小堺の存在も大きかった。

「小堺君とは、それまでTBSラジオで『コサキンDEワァオ!』をやってたけど、『欽どこ』で初めてコントをやるようになった。当時の小堺君はね、ちょっとアイドルっぽくてかわいかったんです。僕の臭みとかヌメリを取ってくれた。要するにショウガとかネギの役割もやってくれたんですね」

フジテレビの「笑っていいとも!」では、85年4月から14年3月に終わるまで29年間もレギュラーを務めた。メインのタモリ(78)に次ぐ長さだ。

「プロデューサーの横澤彪さんが、僕と小堺君のコントを見て、面白いと思ってくれた。それで、浅井社長に電話して『そろそろいかがですか、オタクの関根勤、笑っていいとも、いかがですか』って言ってくれた。タモリさんは、誰にも忖度(そんたく)しないすごい人でした」

盟友・小堺とは、来月3日にイベント「コサキンDEワァオ!~ピーチ・スペシャル~」を東京・有楽町の朝日ホールで開催する。

「小堺君は仕事仲間で最も大切な友人であり、恩人であり、ライバルであり、仲間であり、もう彼と出会ってなかったらどうなってたかわかんない。実力があって、回転が速いんですよ。一種の天才、助かりましたよね。僕がボケだったんで、彼はツッコミが素晴らしく速い。だから、いい人に出会えたなと思ってね。すごい才能の人に会えてよかったですよ。今も、彼といると27歳に戻っちゃって。最初に一緒にやった年ですね」

ステージに立てば、いつでも若い日に戻れる。関根勤は“笑顔の青年”のままだ。

▼師事する萩本欽一(82)

関根は弟子でも何でもないからね。事務所に後輩として入って来て「欽ちゃんに会いたい」って言ってたたから、「会いたくない」って。5年くらいすれば、ほとんど辞めていくからね。5年たって「まだ、辞めてないんです」っていうんで、本物かなと思ってテレビで見たら、わけの分からない笑いをやっていた。ラビット関根の芸名でカマキリ拳法とかね。あんまり近づいてくれるなと思ったよ(笑い)。だから関根の舞台は、怖くてほとんど見たことないの。

それで83年にテレビ朝日の「欽どこ(欽ちゃんのどこまでやるの!)」に出てもらう時に「関根勤」という役でやってくれって言ったの。真面目にできることも見てもらえって。番組が終わったら元に戻ればいいとね。「欽どこ」は、真面目にやらないと大人のお客さんにかわいがってもらえないからね。だけど、今日、この取材で「ラビット関根」っていう名前は桂文枝(当時三枝)さんがつけたっていうのを、ちゃんと知ったのよ。関根が、よく「欽ちゃんに名前を変えられた」って言ってるから、ギャグで言ってるんだと思ってた。文枝さんがつけたなんて知らなかったよ。悪いことしたな。今度、文枝さんに会ったら、ちゃんと謝らないといけないね。

それなのに50周年、51年目、その数字を聞いて、バカじゃないんだな、多くの人に支持される笑いになったんだなと、今になって偉いなと感心する。50年間、広く考えてやって来たんだね。みんなにかわいがられる笑いをやれるようになった。今、弟子にしたいくらいだね(笑い)。50周年の舞台ではハチャメチャにやって、ラビット関根に戻ってほしいな。何をやっても形にする、あの笑いをのぞいてみたい。最後はラビットで締めてほしい。

◆関根勤(せきね・つとむ)

1953年(昭28)8月21日、東京都生まれ。74年にTBS「ぎんざNOW!」の「しろうとコメディアン道場」で初代王者となり、芸能界入り。77~86年、日本テレビ「カックラキン大放送!!」。82~86年、テレビ朝日「欽ちゃんのどこまでやるの!」。85~14年、フジテレビ「笑っていいとも!」。96~14年、TBS「さんまのSUPERからくりTV」など。現在のレギュラーはフジテレビ「ミライ☆モンスター」など。長女はタレント関根麻里(39)。身長168センチ。血液型A。

◆関根勤芸能生活50周年記念公演「カンコンキンシアター35 クドい!~烏骨鶏のジジィ参上~」

4月26日~5月6日。東京・銀座の博品館劇場。ラッキィ池田、キャイ~ン、中村嘉夫、ずん、森一弥、平子悟、イワイガワ、神部美咲、飯田あすか、安井南、丹丹ミホら。

 
 
 
 
85年、小堺一機(右)と並ぶ関根勤
85年、小堺一機(右)と並ぶ関根勤