ジャニー喜多川さんを語る時、「野球」の話は外せない。戦後、アメリカ大使館に勤務する傍ら、子供たちに野球を教え、ジャニーズというチームを結成した。その中から、ジャニーズ事務所のアイドル第1号となる初代ジャニーズが結成(62年)された。

90年代以降、ジャニーズタレントによる野球大会が、新潟県中越地震(04年)や東日本大震災(11年)などのチャリティー試合も含め頻繁に行われている。ジャニーさんは、「エンターテインメントの代表」と考える野球という競技に重きを置き、危機が訪れると、率先してアクションを起こしてきた。

98年(平10)の第80回全国高校野球選手権の開会式で、滝沢秀明(当時16)率いるジャニーズJr.総勢80人が異例のミニライブを行ったことがあった。

2年前の第78回大会で、期間中の総入場者数が70万人を割り、64万5000人に落ち込んだ。それまでの大会史上最多だった90年の約93万人をピークに6年連続で減少を続けていた。さらに、この年の地方大会の参加校数が前年の4098校から4089校に減っていた。参加校の減少は戦後初めてだった。翌年の第79回大会でも回復の兆しはなかった。93年にJリーグが開幕しサッカーの人気沸騰などが影響していた。

80回という記念大会に“秘策”が必要だった。それがジャニーズJr.だった。女性ファンが多数駆けつけ、開会式では9年ぶりの5万人を突破。松坂大輔(現中日)を擁する横浜の春夏連覇で大会は盛り上がり、総入場者数は89万5000人に達した。ただ高校野球の聖地にアイドルが登場することに、苦言が予測されていた。滝沢自身も後に「僕らにとってはアウェーでした」と話した。ジャニーさんはそれでも高校野球のために引き受けた。

プロ野球の“危機”でも、ジャニーさんは動いた。04年9月、球界再編に端を発し、選手会がストライキ実施を決議した。当初の予定日は11日と12日。ジャニーさんは「野球をやらなくて悲しむのはお客さん。野球は楽しくやらなければいけない」と、その11日に、もともと試合予定のなかった大阪ドームでジャニーズ野球大会の開催を即決。この日のストライキは回避されていたが、亀梨和也(当時18)らのプレーに2万4000人が楽しんだ。

同年8月末までの近鉄戦の平均入場者数は約1万9000人で、大幅に上回った。観客は女性が圧倒的に多かったが、ジャニーさんの思いが具現化された試合だった。

ジャニーさんが亡くなった翌日の今月10日、11月に開幕する「世界野球プレミア12」の「侍ジャパン公認サポートキャプテン」に、中居正広(46)の就任が発表された。中居は「少しでも野球人口が増えてほしい。野球の面白さを1人でも多くの人に知ってほしい」とコメントした。ジャニーさんの代弁者のようでもあり、「ジャニーイズム」を引き継ぐ意思表示にも感じられた。【特別取材班】