夫婦漫才コンビの宮川大助(73)花子(68)が1日、大阪・YESシアターで4年ぶりに漫才を披露した。

<花子漫才復帰までの歩み>

◆19年3月 寛平マラソン出場(12キロウオーキング)で体に決定的な異変を感じる。

◆19年6月 多発性骨髄腫と診断。放射線治療、化学療法を開始。入院当初は「首から下が動かない」状態だった。

◆同12月11日 大阪市内で会見し、闘病を報告。全身7カ所以上に腫瘍があったが、回復傾向にあると言い、達者な花子節は健在。なんばグランド花月(NGK)のセンターマイクへの復帰を誓った。

◆20年1月 「検査で全身の腫瘍が消滅した」と明かす。下半身不随状態もリハビリ重ね、歩行器を着けて歩く訓練も。右手の握力も10キロ程度まで戻り、趣味の手芸や絵描きも再開した。

◆同4月16日 奈良県内の病院を退院。「次の1歩は歩いて踏み出したい」として、玄関口で車椅子から降り、歩いて病院を出た。

◆同5月 病状を示す数値が悪化し、新たな化学療法を受けることになり、週1回の抗がん剤治療を継続。病との闘いは新たなラウンドへ進んだ。折しもコロナ禍で次なる試練との闘いも始まった。

◆21年12月19日 地元の奈良県生駒市で、約2年半ぶりに舞台出演。大助を車いすに乗せて、花子自らが押して歩く意表を突いた登場。達者なしゃべりも健在で、「(病と)100戦100勝します」と宣言。

◆22年1月 闘病記「あわてず、あせらず、あきらめず」を出版。2月にはオンライン会見し「遺作ではありません。私の希望をのせてますんで」。

◆同3月 病状は「寛解」状態まで回復。当初は「自分の足でセンターマイク」を目指すも、東京五輪・パラリンピックでの選手の活躍に心を打たれ「車いすで漫才できないと思っていた自分が恥ずかしい。パラ芸人になる」と決意。

◆同年4月3日 吉本興業創業110周年特別公演で、約3年ぶりに聖地NGKへ登場。夫大助には「110周年いうて呼ばれて、1人でええ言うたんですけど、うちの夫もきました。この人、一応ね、二刀流なんですよ。庭掃除もやるし、家のこともやるし。本職は何か知らんけど」。初代吉本新喜劇座長の故笑福亭松之助さんの長男で、明石屋さんまの兄弟弟子、明石家のんきもイジリ倒し、健在な花子節でわかせた。

◆同年4月24日 奈良県生駒市の「たけまるホール」で、闘病記の出版記念講演会。病に倒れて初めて、単身での舞台だったが、トークは予定を約10分オーバー。「ほんまはさーっと歩いてきたかったけど、リハビリしすぎて腹筋とおしりが筋肉痛で」と笑わせた。

◆22年10月30日 担当医師が出演する尊厳死について考える会に、夫大助とともにオンライン出演の予定だったが、前日29日に体調が悪化し、救急搬送され出演見送り。呼吸困難から一時は心肺停止にも陥り、心不全の状態となったが、ICUで治療を受けて回復。

◆同12月11日 「生駒の素人名人会」にサプライズ出演。冒頭、花子の欠席が伝えられ、長女さゆみが電話でつなぎ、花子は電話越しに「大きな声出したらあかんねん。心臓に悪いから」。その3時間後のエンディングで「スペシャルゲスト」として、車いすながら「どうも~」と元気な声で登場。総評を任された大助が「え~」と発して間を置くと、すかさず「あんた、かんだらあかんで!」。花子の機関銃トークで大助にしゃべる間を与えない「大花漫才」さながら。

◆23年2月 大阪成田山不動尊(大阪府寝屋川市)の節分祭で豆まきに参加。地元出身で、節分祭のレギュラーメンバーだったが、久々に特設舞台に現れ「福は内!」。当日の気温は5度も「寒くなかった。カイロをはっていたし、皆さんの熱気がうれしかった」。

◆23年4月10日 4年ぶりの漫才披露イベント「宮川大助・花子の『お待たせ!』」を発表。19年6月、名古屋・大須演芸場以来の漫才に「口は元気」。