かつてゴクミの愛称で一世を風靡(ふうび)した女優の後藤久美子(49)を33年ぶりにインタビューする機会があった。

30年ぶりのドラマ出演となったテレビ朝日系「顔」(24年1月3日放送)の収録直後のタイミングだ。

「楽しかったです。現場の雰囲気は30年前そのままでした。でも、体力的なこともあって、難しいシーンが続くと、やっぱりたいへんだなあと思いましたね」

スリムな体形が変わらないこともあって「国民的美少女」と言われた頃の面影が驚くほど残っている。一方で、笑顔を交えての話しぶりは、とんがっていた少女時代と比べてずいぶんと丸くなったように感じた。

「美少女ゴクミ」にスポットを当てた10回連載を担当したのは90年。当時16歳の後藤は、巨匠山田洋次監督の目に留まり、「男はつらいよ」シリーズのマドンナ役を2作連続で務めていた。作品ごとに大女優をゲストに迎えるマドンナ役を10代が務めるのが初めてなら、連投も珍しかった。

一方で、まぶしいくらいの美少女は、そのキレキレの舌鋒(ぜっぽう)で、年上のインタビュアーをタジタジにすることで知られ、取材する側にとってはちょとした「脅威」だった。

「ゴクミ語録」(坂本龍一プロデュース)なる本も出版され、そこには「ノロマな大人は大キライ!」などの発言も収録されていた。直前には、夕刊紙のベテラン記者がたったひと言しかコメントをもらえず、それを逆手に取って「元気、生意気……」という皮肉たっぷりの記事を書いたこともあった。

デスクからこの連載の担当を言い渡された時は正直気が重かった。1回のコンタクトではうまくいくはずがないので、撮影中だった「男はつらいよ」の現場や、キャンペーン期間に入っていた映画「ガラスの中の少女」のPR現場にしばしばお邪魔する形で、延べ10回近い短時間のインタビューを積み重ねた。

年齢は16歳でも、デビューからの4年間、大人たちの中で、それも才気あふれる人ばかりと仕事をしてきているので、ぬるい質問をすれば「ノロマなやつ」と思われてしまう。答えも端的というか、最小限と聞いていたので、例え「はい」と「いいえ」だけで終わっても、原稿を組み立てられるように。質問準備に知恵を絞った記憶がある。

何度取材を重ねても、決して気を許してくれることはなかったが、こちらの意図を理解すると、最小限でもきっちりとした答えをしてくれた。

当時の記事を読み返すと、人見知りですぐ泣いていた幼稚園時代の逸話や、男性に生まれていたら「ズタボロになるくらいラグビーをやりたかった」という意外な願望も明かしている。

この連載のために、当時のドラマ主演作「火の用心」の脚本を書いた倉本聰さんにも話を聞いた。当時から大家と言われる存在であり、こだわりのセリフはどんな大女優も「一字一句正確に」と心がけることで知られていた。

が、脚本読み合わせの日、倉本さんは後藤が平然とセリフをアレンジして読んでいることに気付く。「だった」で終わるはずの語尾の部分がことごとく「ですます」調に言い換えられていたのだ。

読み合わせ終了後、倉本さんは後藤を呼んだ。

「なぜ語尾を変えたの?」

「私はこういう言い方はしないからです」

「僕はすべてのセリフを計算して書いている。『だった』にはそれなりの意味がある」

こんなやりとりをしながら、倉本さんは内心後悔していた。

「誰だってあの圧倒的な美少女には嫌われたくない。僕が折れるべきだったと思いましたよ」

だが、ちょっと間を置いてから、後藤が「すみませんでした」と折れた。表情を変えずにうなずきながら、倉本さんは内心ホッとしたという。

当時の取材の様子や、倉本さんとのエピソードを話すと、そのたびに33年を経た後藤は照れくさそうに笑った。

「当時の私はドスコイ! って感じでしたから。自分でいうのも何ですが、3人の子育てをしてたいへん成長できたと思っているんですよ」

元F1レーサーのジャン・アレジ(59)と事実婚27年。26、24、15歳になる3人の子どもにも恵まれて、確かに穏やかな空気をまとっているように思う。だが、少女時代をほうふつとさせるシャキシャキとした答え方は、常に「的確な質問」を求めているような気がしたし、相変わらずくりっとした目を真っすぐに向けられると、今回も内心ヒヤヒヤの取材だったことは確かだ。笑顔でインタビューを終えられて、何よりホッとしている。【相原斎】