【2006年1月1日付

 日刊スポーツより】

 生きる伝説。最後の映画スター。そして孤高の人。高倉健(74)。昨年は初めて中国映画に主演し、今年、俳優生活50周年を迎えた。前に進み続ける不屈の精神には一片のよどみもみられない。何を考え、何を見つめ、何を目指して走り続けているのか。寡黙な男が、その胸の内を明かした。今日元日と3日、2回に分けて、健さんが語ります。

 

 

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 取材は都内のホテルで行った。「よろしくお願いします」。ピンと伸ばした背筋。短く刈り込んだヘアスタイル。まっすぐこちらを見つめながらあいさつする声は、太く低く、そしてどこか温かみがある。

 「自分でも少し驚いています。俳優になって50年なんて、え?

 もうそんなにたつのという感じです」。

 昨年10月の東京国際映画祭。開幕作品として上映された「単騎、千里を走る。」の会見の席上で、健さんはこう切り出した。「俳優になって50年を迎えます」。会場は拍手に包まれた。前夜にプロフィルをながめたせいもあって、無意識に出た言葉だった。

 「普段意識していたわけではないのですが、緊張していたせいか、ポロッと出ちゃったです。今でもなぜそう言ったのか、覚えていません。不思議ですね」。

 積み重ねてきた作品は204本。その足跡は、戦後の日本映画史そのものと言っていい。60年代に任侠(にんきょう)もので若者を夢中にさせた。70年代は大作「八甲田山」や名作「幸福の黄色いハンカチ」で観客の涙をさそった。80年代にはハリウッド進出を果たし、日本人俳優の可能性を広げた。そして中国映画に初挑戦した。日本で50年間も主演を張り続けている男は、ほかにいない。揺るぎない地位と人気。その原点は「負けん気」だった。明大卒業後、いったん故郷の九州に戻った。

 「東京に好きな女性がいてね。出てきたんですよ。高島屋とかノースウエスト航空の仕事をしました。でも大きな会社のベルトコンベアに乗っかっていく人生はやりたくなかった」。

 明大の先輩の友人から、大川橋蔵さんや美空ひばりさんが所属するプロダクションで「アシスタントでもやらないか」と誘われた。東京・京橋の喫茶店で紹介者と会っていると、階上にある東映の専務が横を通りかかった。「俳優になる気はないか?」。

 「(俳優人生は)そんな偶然から始まったんです。後輩の下宿に居候していたのですが、後輩から『ものすごく合っているか、その正反対かどちらかですね』なんて言われました」。

 入社が決まり、俳優座で1カ月間の演技指導を受けることになった。高校時代はボクシングに傾倒。大学時代も相撲部に所属した。演劇とは無縁の武骨な学生生活を送った男にとって不慣れなことばかりだった。

 「みんなが白い目でじろっと見るんです。バレエをやってもみんな笑うし、日本舞踊をやっても、またみんな笑う。そのうちみんなが笑って授業が進まないからって、僕は見学になってしまったんですよ。屈辱の毎日が続きました」。

 1カ月が過ぎて先生に呼ばれた。「お前は向いていない。悪いことは言わないから、やめなさい。何百人という生徒を見てきたから間違いない」。厳しい言葉だった。しかし、下を向くことはなかった。

 「頭の中がカーッとなりましてね。何だか無性に悔しくて。絶対にやめるか、この野郎って。今考えてみたら、人生って分からないよね。その先生が向かないって言わなかったら、そんなに燃えることはなかっただろうし、今、何で50年も俳優をやってこられたのかと考えてみれば、多分それなんです。負けるか、この野郎。それですよ、結局。きっかけがどうであれ、燃えるということは、そういうことを引き起こすということですかね」。

 結局、東映本社に呼ばれて、空手映画のオーディションを受けることに。

 「上半身裸にさせられて、何かもう馬か何かを見ている雰囲気で。『こっちの方がいい体している、決まり』と言われて映画に出ることになったんです」。

 高倉健としての人生はあっけなく始まった。「日本侠客伝」「網走番外地」「昭和残侠伝」シリーズが相次いでヒット。年間16本も出演した年もあった。義理人情で生きる、ストイックで寡黙なイメージが定着。トップ俳優に登り詰めたが、量産態勢もあって、じっくりと作品と向き合う時間はなかった。精神的に消耗した。今、振り返ると少し複雑な思いがよぎる。

 「あの時期にもっといい仕事ができたんじゃないかと考えても、それはきりがない。あの女性はもったいなかったな、なんて、そういうのいっぱいあるでしょ?

 何でもうまくいくことなんて、なかなかないです。100本撮っても、自分の中に何も残っていないものがほとんどかも知れませんが、あの時期がなければ、今の自分はないですから。苦い思い出の映画はありますけど、悔いはないよ」。

 そんな思いからだろうか。「俳優という職業を絶対に傷つけない」という信念がある。どんな撮影現場に立っても、忘れない。

 「どんなに芝居がうまくても、俳優という職業が世間から情けねえと思われるなら、それはこの職業を傷つけたことになる。俳優も悪くないなと思っていただかないと。俳優の地位を高める人、尊敬しますね」。

 そこで、偉大なボクサーを例に出した。シュガー・レイ・レナード。米国で5階級制覇を成し遂げた、80年代を代表するスーパースターだ。健さんはその生き方に強くひかれた。レナードは82年に網膜剥離(はくり)でいったん引退したが、2年間のブランクからカムバックを試みた。

 「引退する前にめちゃめちゃお金も入って、その後も試合の解説をするだけで、ファイトマネーぐらいの収入を得ていた。でも、シュガー・レイは、もしかしたら、もう1度、観客を沸かせることが自分にできるかも知れない、そう考えて、2年間トレーニングを積んだ。お金じゃない。すごいよね。そういう戦い方もあるんだって。見に行きましたよ、その試合を。完全に高めましたよね、ボクサーという職業を。伝説に残るのは、強い弱いじゃない。もっと違うところにあるんだよね」。

 一気にまくし立てた言葉は明らかに熱を帯びていた。自分の理想の生き方がそこにあるのだと言わんばかりに。

 レナードは、ケビン・ハワードと対戦。ダウンを奪われ苦戦を強いられたが勝利する。再びリングから去ったが、3年後、再度カムバックする。チャンピオンのマービン・ハグラーを圧倒的不利の予想を覆して下し、世界ミドル級王座を奪い取った。健さんは、レナードと比較するように、度重なるスキャンダルにまみれたかつての“天才”の名前も出した。

 「マイク・タイソンは好きじゃない。やっぱりマナーがない。ボクサーという職業を傷つけたよね。美しくなかった。戦い続けるというのは、難しいよね」。

 寡黙。孤高。ストイック。健さんのイメージを言葉にすると、そんな形容がよく並べられる。

 「僕はよく、しゃべらない男だと言われています。取材や何かで、あまり話さないようにしているわけですが、例えば、いろいろなところで、うまいことしゃべっても、俳優にとってそれは何の値打ちもないってことが、よく分かっていますから。やっぱり、フィルムの中以外のことは、何を言っても、むしろ反対になっちゃうよね。あいつは、しゃべらせるといいこと言うんだけど、映ったら何もよくねえって(笑い)。そうは言われたくないですから。もっとも、しゃべらない方が楽っていうのもあるけどね」。

 そういってこぼした笑みが、レナードを語る言葉と同じぬくもりを感じさせる。50年。真摯(しんし)に俳優という職業と向き合ってきた。気合を入れるために、撮影現場では待ち時間もイスに座らない。スタッフや若い俳優が緊張していると感じたら、ちゃん付けで呼び掛け、空気をなごませる。辺境の地の撮影も多かった。厳しい環境にもあえて立ち向かった。厳冬の八甲田山、北海道、北極、南極、アラスカ、砂漠が広がるアフリカ…。

 「どこにでも行ったね。僕はすぐに甘えちゃうから、厳しいところをどんどん選んだ。自分を磨くってことは痛いよ。だって削っていくんだもん。芯(しん)しか残らないんだよ。でも、やるぞって思ったら、その時しかないんだよね。いろいろ言っているうちに、みんな年を取って死んでいく。時間は意外とないものですから、飛び出していかないといけないね」。

 今、あらためて俳優という仕事について考えている。

 「最近、いい俳優って何だろうって考えているんですよ。書き出してみたんです。セリフ覚えの能力がある。恥をかくことをいとわない。所得の額。人気投票の数。全部違うでしょ?

 これが分からないですよ。50年もやっているのにね。真剣に考えてこなかったから、いまだに分からないんです」。(つづく)