小2の秋に始めた野球。3年になると祖父に頼み、竹製のティーバッティング機を作って、自主練習に励んだ。試合にも出場できるようになった。勝っても負けても帰りの車では解説者さながら、試合を分析。みんなの人気者だった。

 幼稚園の頃から意地っ張り。小1の頃、ゲームばかりしていたお仕置きに米蔵に入れたが、泣きもしない。30分後、親が根負けした。その性格は野球を始めると、練習の虫になった。大好きな野球はたった1年半しかできなかった。

 遺体は震災から22日後、大川小近くで見つかった。傷はほぼなかった。やっと空いた福島県の火葬場。美広さんは亡きがらにユニホームをかけてやった。それが精いっぱい。棺(ひつぎ)のふたを閉じるくぎさえ打てない。座り込んで、ただ泣いた。裏山に逃げず45分もの間、校庭に待機したのはなぜか。理不尽だ。助けられた命が、9歳の小さな体が消えていく。

 真相究明と再発防止のため14年3月に提訴。翌月、美広さんに大腸がんが見つかる。とも子さんは「裁判をちゃんとしてから逝かないと天国で健太に会えないよ!」と励ました。3カ月の入院、放射線治療、手術、1年間の人工肛門。愛息への思いで奮い立った。

 「花は咲く」「きっと笑える」「希望」。震災直後から、都合の良い歌詞やセリフが聞こえた。「希望なんてないよ」。遺族の心の痛みは、どんなに時間がたっても癒えるはずもない。

 生きていれば来月、高校生になる息子は、なぜ学校で死んだのか。真相が分かれば未来の命が救われる。それが息子が9年間の命を懸けて伝えようとしている、生きた証し。陰口など耐えてやる。闘い続けた6年は、長く暗いトンネルの入り口にすぎない。【三須一紀】