日本電信電話公社や国鉄などの民営化を行った中曽根康弘(なかそね・やすひろ)元首相が29日午前7時22分、老衰のため都内の病院で死去した。101歳だった。

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101歳で亡くなった中曽根康弘元首相を政界では大勲位と呼ぶ。97年に大勲位菊花大綬章を受賞しているからだ。多くの自民党ゆかりの議員が中曽根氏の憲法改正への想いを追悼に寄せているものの、その覚悟と研究のレベルは現役議員が束になってもかなわなかったろう。政治家としては常に「国家観」を持ち、戦後政治の総決算を掲げて行革と外交に力を込めた。そのルーツは海軍に起因する。

「中曽根康弘回顧録 政治と人生」(講談社92年刊)には「かつて私は“風見鶏”という蔑称を受けた。しかし、風向きを知ることは操艦の第1歩である。風によって体は動かすが、足は一点にしっかり固定している。これが風見鶏である」と説明しているように、政権を得た82年の第一次内閣のメディアの評価は散々で「田中曽根内閣」「直角内閣」「ロッキードシフト内閣」とロッキード裁判中でありながら田中派の重用が田中支配と批判された。二階堂進幹事長、後藤田正晴官房長官となれば当然だ。

首相就任直後の訪米の際「日本列島を不沈空母のように強力に防衛する」と発言し大問題になる。風見鶏も決して順風ばかりではなかった。いわゆるロンヤス関係と言われる当時のレーガン米大統領との信頼関係を作る首相という演出もこの時からだ。

だが、中曽根政権のすごみは政権の人事にある。後藤田氏を官房長官、行政管理庁長官、総務庁長官、再び官房長官と閣内に置き続けた。87年夏、中曽根氏や外務省はイラン・イラク戦争で機雷がまかれたペルシャ湾の安全航行確保のため「自衛艦の派遣」を強く主張したが後藤田氏は「あそこは交戦海域。戦争の覚悟はあるのか。私はサインしない」と立ちはだかり断念させた。官房長官が政権の柱であることがよくわかる。また、第二次内閣からは宏池会の護憲派、栗原祐幸氏、加藤紘一氏と防衛庁長官をハト派に任せた。改憲論者ながら要には考えの違う人材を置く人事も政権の足をしっかりと固定していたといえる。

安倍晋三首相と面白い関係がある。今月20日、桂太郎元首相を抜き、憲政史上最長になった安倍氏だが、桂氏は創立者で初代拓殖大学校長。1900年台湾協会学校がルーツ。その第12代総長が中曽根氏。そして安倍氏の首相退任後に同校総長就任のうわさがある。

私は04年、文化放送政治塾という企画で大胆にも憲法問題の基調講演を中曽根氏と共産党の不破哲三氏に依頼、司会をしたが、改憲の意義と国の在り方についてわかりやすい言葉で一般の参加者に語ったことが印象的だった。どうしても現政権との比較になるが、その差は大きい。(政治ジャーナリスト角谷浩一氏)