東日本大震災と東京電力福島第1原発事故からまもなく11年を迎えます。日刊スポーツでは、連載「忘れない3・11 あれから11年」で、被災地の今を伝えます。東電の事故で避難が続く福島県大熊町の「帰還困難区域」のうち、「特定復興再生拠点区域」(復興拠点)に指定された地域では今春、避難指示の解除が予定されている。広野町から復興拠点内の下野上(しものがみ)地区の自宅に通い、牛の世話をする池田光秀さん(60)は「何かあった時に牛のそばにいてあげられることがうれしい」。11年たって、ようやく、自宅で寝起きするのに誰の許可もいらなくなる。

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「自分の家なんだから、本当は普通のことなんだけどねえ」。池田さんは春に予定されている避難指示の解除を心待ちにしている。21年12月3日から始まった「準備宿泊」では行政の手続きが必要だった。宿泊する3日程度前に内閣府に電話で申請し、当日は大熊町役場で放射線量の測定機を受け取り、本人確認を行う。避難指示解除後は必要なくなる。「何も許可がいらなくなるのはうれしい」。自宅周辺は事故前とは様変わりし、元通りではない。それでも、ようやく「普通」を1つ取り戻せる。

町の準備宿泊の利用者は12月から3月2日までに16世帯46人。事故前、約1万1500人が住んでいた町は、19年4月に避難指示が解除された大川原、中屋敷地区の帰還者や新規住民ら約920人と合わせ、27年までに4000人規模の居住を目指す。

大熊町の自宅敷地の除染後、放射線量は低下したが不安要素はいまだに残る。昨年11月には、国が避難指示解除の目安としている線量(毎時3・8マイクロシーベルト)を超える地点が敷地内で見つかり、追加除染が行われた。電気、水道、ガスは使えるが、自宅近くのスーパーや病院は閉鎖したまま。池田さんの妻美喜子さん(64)は「完全には安心できない」と、まだ1度も自宅に宿泊していない。

東日本大震災から一夜明けた11年3月12日朝、町から避難指示が出た。和牛の繁殖と会社員の兼業農家だった池田さんは当時飼っていた31頭の牛にいつもの3倍の餌を与え、牧場に残して避難した。「涙が止まらなかった」。数週間後、心配で見に行くと、牛は逃げていた。

11年12月に広野町に落ち着くまで各地の避難所を転々としながら、一時帰宅で牧場に通い、近くにいるかもしれない牛のために餌を置いた。その後、再会できた一部の牛を牧場で再び飼い始めたのが12年4月。国は20キロ圏内の家畜の殺処分を決定していたが「家族同然の牛をただ殺すことはできない」と応じなかった。この牛たちの出荷は認められておらず、利益は生まないが、動物の被ばくの影響を調べる大学などの研究グループに、牛の血液を提供し、役に立ててもらった。

避難指示が解除された後のことも考えている。今いる牛を飼いながら、繁殖農家として営業再開するには膨大な経費がかかり、ハードルが高い。数頭の新しい牛を飼って、牛を間近で見られる「ふれあい牧場」のような取り組みができないか、検討している。池田さんは「売れる牛でなくても、ここで牛飼いができるんだぞと見てもらいたい」と前を向いた。【沢田直人】

◆特定復興再生拠点区域(復興拠点) 東京電力福島第1原発事故による避難指示により、放射線量が高く、立ち入りなどが制限されている帰還困難区域内のうち、先行的に居住や農業などの再開を目指す区域。広さは、南相馬市、大熊町、浪江町、富岡町、飯舘村、葛尾村にまたがる帰還困難区域の1割にも満たない。放射性物質汚染対処特措法は、除染は国の責務としており、政府は16年に「長い年月を要しても帰還困難区域全域を避難解除する」と表明したが、復興拠点以外の帰還困難区域では、除染計画すら示されなかった。国は21年8月、20年代中に帰還を希望する住民の自宅周辺のみの除染を行い、避難解除するとの方針を示した。全面除染を求める住民から反発の声もある。