戦後日本を代表する文学者で、平和、護憲、反核を訴えてきたノーベル文学賞作家の大江健三郎(おおえ・けんざぶろう)さんが3日午前3時過ぎ、老衰のため病院で死去した。
88歳。愛媛県出身。葬儀は家族葬で行った。喪主は妻ゆかりさん。後日お別れの会を開く予定。川端康成に次ぎ日本で2人目のノーベル文学賞を94年に受賞。半世紀以上、文学と言論活動の一線に立ち続けた。
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大江さんは東大仏文科在学中の57年にデビューし、翌年の「飼育」で芥川賞を23歳で受賞。「芽むしり仔(こ)撃ち」なども高く評価された。その後も故郷の四国の森などを舞台に独自の文学世界を築き、67年発表の「万延元年のフットボール」で谷崎潤一郎賞、73年の「洪水はわが魂に及び」で野間文芸賞など、さまざまな文学賞を受賞。作品は翻訳されて海外でも注目され、94年にノーベル文学賞を受賞した。受賞講演は川端の講演「美しい日本の私」に対し「あいまいな日本の私」と題した。文化勲章は「戦後民主主義と、(国が与える)文化勲章は似合わない」と述べて辞退した。
私生活では、松山東高校で同級生だった映画監督・伊丹十三さんの妹ゆかりさんと60年に結婚。63年に長男・光さんが誕生した。知的障がいがある作曲家・光さんの存在は、大江文学にとって転機になったとされる。障がいのある子と生きる決意をした男性を描く「個人的な体験」(64年、新潮社文学賞)は多くの言語に翻訳されて代表作となり、「新しい人よ眼(め)ざめよ」(83年、大佛次郎賞)、「静かな生活」(90年)など自身や家族をモデルにした作品群を発表した。
平和や核兵器などにも正面から向き合い続け、積極的な言論活動でも知られた。広島を何度も訪問取材した「ヒロシマ・ノート」(65年)や、「沖縄ノート」(70年)を刊行。護憲運動でも04年に作家の井上ひさしさんらと「九条の会」を結成。11年の東日本大震災後には脱原発を訴え、数万人規模の集会の先頭に立った。同年の講演では「(原発に)はっきりノーと言う、平和をつくり出す決意を確かめよう」と話した。
丸い眼鏡でも知られた大江さんは、13年のインタビューでこう語った。「どんな文学も『私はここで滅びる。しかし私らは生き延びることができる』と書くものだと僕は考える。僕は希望を持っています。今、生きているのだから」。家族は「最後は穏やかに息を引き取りました。生前のご厚情に感謝申し上げます」と話した。

