中日、阪神、楽天の監督を歴任し、今年1月4日に膵臓(すいぞう)がんのため70歳で死去した楽天の星野仙一副会長。星になった大物がずっと気にかけていた選手とは-。

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オフに星野と会おうと思ったら、少し早起きしてホテルオークラの新館ロビーで待てばよかった。

8時前にエレベーターから寝起きの体で現れた。気だるそうな顔で大きな右手のスナップを利かせ、カフェへ招いてくれた。

店内を一直線に抜けた突き当たりが指定席だった。座ると必ず野菜炒めライスが運ばれてきた。洋食中心の店で、1人しか頼まないであろう裏メニュー。平皿にキャベツ、もやし、タマネギ…色味がなく「何で野菜炒めなんですか」と聞くと「いいから食べてみろ」と言われた。

オイスターソースが違うのか? 炒め方? 平凡な見た目からは想像できない滋味があり、素直に従って一緒に食べるようになった。ホットコーヒーをすすりながら「お前は何で年中アイスなんだ。コーヒーを分かってないな」と笑っていた。

食後は階段を上がり、2階でたばこを吸った。重い扉を手で押すと、ぜいたくな喫煙所があった。用がなければ、まず人は来ない。穴場でリラックスしてから散歩に出た。30分ほど歩き、部屋に戻って2人でテレビを見るか、解散か。11年の晩秋から初冬は、こんな日々を過ごした。

当時の星野は機嫌が良かった。楽天で迎えた最初のオフ、貧打解消への打開策を求められていた。田代富雄と大久保博元。実績ある指導者を同時に呼び、フレームを固めることに成功した。「ウチの選手は振る力がない。強く振れる選手を育てなくてはいけない。FAで選手が選んでくれるような歴史もない。まず自前だ。魅力あるチームにしなくちゃな」。朝食を食べ、たばこを吸い、散歩をしながら、同じ話を繰り返した。

必ず引き合いに出した名前がある。「西武の浅村を見ろよ。むちゃくちゃ振れる。体も心も強くないと、全部の球にフルスイングできない」。初めてのパ・リーグ。選手名鑑を手に試合前のフリー打撃を見て、名前を覚えるのに必死だった。「あれ、誰だ。大阪桐蔭か」と最初に目を付けたのが当時20歳、駆け出しの浅村。気になる選手になった。

亡くなる1年ほど前には、人知れず長く愛した東京の定宿を離れていた。理由を聞くと「マスコミが来て面倒だ」と言ったが、少しずつ身の回りを整えていたのだと思う。自宅に招かれた田代が何げなく「いいクラブですね」と言うと「持って帰れ。お前にやる」と言って譲らなかった。田代は「形見の品になっちゃったな」と寂しそうに言った。

心をぶつけて雌雄を決し、人を動かす。グラウンド内外で、目いっぱい野球の魅力を表現し続けた。浅村の移籍が決まり、古参の楽天幹部は「天国の星野さんが喜んでくれると思います」としみじみ言った。うまそうにたばこを吸いながら「やりよるな」と笑っているに違いない。(敬称略)

【宮下敬至】

◆星野仙一(ほしの・せんいち)1947年(昭22)1月22日、岡山県倉敷市生まれ。倉敷商から明大を経て68年ドラフト1位で中日入団。82年引退まで通算500試合に登板し146勝121敗34セーブ、防御率3・60。74年最多セーブ、沢村賞。87年に中日監督に就任。中日で88、99年、阪神で03年に優勝。史上初めてセ2球団を優勝へ導いた。04年に阪神シニアディレクター就任。08年北京オリンピック(五輪)で日本代表監督(4位)。11~14年は楽天監督。13年に球団初の日本一。03、13年正力賞。15年9月から楽天球団副会長。17年に野球殿堂入り。18年1月4日、70歳で死去。現役時代は180センチ、80キロ。右投げ右打ち。

星野監督の年度別成績
星野監督の年度別成績