平成の野球を語る上で、最重要人物が松井秀喜(44)だ。巨人の4番、球界の将来を担う逸材と期待され1993年(平5)にプロデビュー。長嶋茂雄監督から熱血指導を受け、日本を代表するスラッガーに成長した。03年からメジャーの名門ヤンキースの主軸として活躍。09年ワールドシリーズではMVPに輝き、世界一に貢献した。時代をけん引した強打者は今、何を考え、どこへ向かうのか-。新時代を前にした思いを探る。

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熱狂するファンが「MATSUI」の名前を叫んでいた。2009年(平21)フィリーズとのワールドシリーズ(WS)で、松井はヤンキース世界一の立役者となった。6試合で13打数8安打の打率6割1分5厘、3本塁打、8打点。文句なしのMVPに選出された。ニューヨーカーが今もなお「レジェンド」として愛するゆえんだ。

「たまたますごく調子が良かったんです。プレーオフに入ってからずっと調子が良かったし、それが、そのままいっちゃったという感じでした。あの年は8月くらいからずっと良かった。理由は…今でも分かんないです。たまたま投手の相性が良かったんですかね」

03年にヤンキース入りして以来、松井は不動の主軸として活躍してきた。当時のヤンキースといえば、主将ジーターにポサダ、リベラ、ペティットが「コア4(核の4人)」と呼ばれた時代。WSでの躍動は、あらためて松井の存在感の大きさを印象付けた。

「結果的には、あれ(MVP)があるとないのとでは、周りからの見られ方とか全然違ったかもしれないとは思いますね。もちろん、ヤンキースで長くプレーした選手として見られるかもしれないですけど、また違ったんだろうとは思いますね。ヤンキースファンはワールドチャンピオンになること、それだけを見たい。だから最後で、いい印象の残り方になったのかもしれないですね」

それでも、ヤンキースは松井と再契約せず、フリーエージェントとなった。WSのヒーローに対してもシビアな現実が待ち受けていた。

「契約が切れることは分かってましたが、終わってから考えればいいと思ってました。もちろん、残れればいいという気持ちは思ってましたけど。ヤンキースがそういう判断だったら『出るしかない』と思ってました。ヤンキースが好きとか、いたいとか関係なく、また違う道を探さなくてはいけないと」

メジャー屈指の組織力、資金力を持つヤンキースでの7年間は貴重な財産となった。

「ひとつの部署にしても人数が違うし、メディアの数も違う。他のチームはファミリー的な雰囲気で、ヤンキースは全然違う。ファミリー的な雰囲気はまったくないです。組織として違うというか、球団に流れている雰囲気、文化というか、チームに所属して初めて分かることを、肌で感じられたのは良かったと思います」

歴史と伝統が染みこんだピンストライプのユニホームを脱ぎ、ニューヨークに別れを告げた。松井は、アメリカ大陸の反対側、西海岸へ向かった。

(敬称略=つづく)【四竈衛】

09年11月、優勝パレードで沿道に集まったファンに手を振るヤンキース松井
09年11月、優勝パレードで沿道に集まったファンに手を振るヤンキース松井