このコラムを書いているのは1月4日。あれから5年がたった。年明けに襲った衝撃のニュース。闘将・星野仙一、死す…。エッと声が出た。何でや、と叫んでいた。

強い星野が、どうしてなんだ。それしか浮かばなかった。そして在りし日の星野の姿を思い出す年始。星野が阪神の監督に就任してスタートした日刊スポーツでのコラム。「読んでいるぞ」とにやりとして、「年寄りの記者は大事にせんとな」と、かわいがってもらった。

2003年の2月後半。チームは沖縄キャンプを終え、高知安芸での2次キャンプに臨んでいた。1日のスケジュールを終え、僕は記者の宿舎ホテルでノンビリしていた。そこに現れたのが星野と広報担当の平田勝男だった。星野に見つかった。「何してるんや? 時間あるやろ。メシ付き合え!」と強引な誘いを受けた。平田を帰し、2人きりの食事が始まった。星野の後援会から送られた松葉ガニにむしゃぶりつきながら、僕は焼酎のお湯割り、星野はウーロン茶。緊張の時間だった。

「お前、岡田と長い付き合いらしいな。アイツ、野球をよく知っているし、勉強もしている。だからオレは1軍に上げたんや」。岡田に関してはこれだけ。でも星野の気持ちの中には、自分の後継者の有力候補との位置づけをしていたに違いない。

星野と岡田彰布。初めて2人が対面して話したのは2001年12月だった。当時、岡田は2軍監督で、名古屋で行われた上坂太一郎の結婚披露宴に出席。そこに何の前触れもなく登場したのが星野だった。阪神の監督就任が決まったばかりの電撃の出現…。そこで星野は岡田に声を掛けた。「あとで部屋に来てくれ」。

1軍監督と2軍監督の対面で、星野はこう伝えている。「オレはまだ阪神のことをわかっていない。チームのことを最もわかっているのがお前や。だから、たのむぞ」と岡田は告げられている。

2003年、1軍の守備走塁コーチになり三塁ベースコーチに立った。星野は岡田の野球観、野球センスにかけた。他のコーチには結果が出なければ、烈火のごとく怒り飛ばしたのに、岡田には一切、お叱りはなかった。判断ミスで走者を憤死させても「気にするな。お前の判断でやってくれればいいから」とさえ言われた。

そこから半年後くらいか。2003年の10月に岡田は再び、星野に呼ばれた。何なんだと考えてもわからなかった。そこで出た衝撃の告白。「オレはシーズン後に監督を辞める。次はお前や。準備していてくれ」と告げられた。体調がよくないのはわかっていた。試合中、ベンチを抜け、ロッカーで休む姿を何回か見ている。しかし、それが監督辞任にはつながらなかった。さらに星野は「次は田淵ではなく、お前や」と再び口にしている。

岡田のあとの真弓や和田の監督就任に星野は直接関わっていないが、自分が身を引くこの時だけは、後任を自分で決め、指名している。星野に何かあれば、次は関係からいって田淵幸一が有力候補になるはずなのに、星野は岡田を指名した。これが2005年のリーグ優勝につながり、そして今回の監督復帰に結びついていった。

星野のあとはやりにくかったに違いない。それも優勝した直後だ。遠慮しながらチーム編成を考えた。2004年の4位。岡田は星野から「勝ちに対する執念」を学びながら、あえて「星野色」からの脱却にかじを切った。

星野が補強し、重用したベテランを見切った。伊良部、藪、ムーアに限界を感じ、新たに岡田色の編成を進めた。それが4番金本を軸にした打線であり、JFKの構築だった。

2000年代の阪神優勝監督の2人。岡田は星野のような派手なパフォーマンスは苦手だし、強調する気もない。その代わり、実務派監督として、星野とは別の方法で勝ちに執念を見せる。岡田を後継に指名した星野が、しっかりと空から岡田の熟成した監督姿を見ているはずである。(敬称略)【内匠宏幸】(ニッカンスポーツ・コム/野球コラム「岡田の野球よ」)