実働29年の現役生活に幕を閉じた。日本ハム中嶋聡捕手兼任バッテリーコーチ(46)が、ロッテ戦で9回の守備から途中出場した。試合後、球団が引退を正式発表し、引退試合となった。阪急(のちにオリックス)から計4球団で、実働29年は工藤公康(現ソフトバンク監督)に並ぶプロ野球記録。昭和入団で阪急を知るラスト戦士が、通算1550試合出場の足跡を残し、現役を終えた。

 武骨に、未練なく別れを告げた。中嶋がマイクを持った。3万超のファンへあいさつした。目は少し赤かった。

 中嶋 29年間、本当に長い間、野球選手をしました。1つも悔いはありません。人に恵まれ、感謝でいっぱいです。

 9回。最後のマスクは4安打を浴び一挙4失点。嫌がったが、押し切られて胴上げ。3度、宙に舞った。苦笑で長い旅を終着した。

 不屈のラストイヤーだった。昨オフ。現役続行か、引退か揺れた。球団側の要請で折れたが、開幕前にラストイヤーの覚悟を決めていた。周囲に明かすことなく胸に秘め、この日まで走り続けた。「秋田の田舎から出ていって、何も分からんかった」。1年目の87年、昭和62年に名門・阪急ブレーブスでスタートした野球人生。阪急の流れをくんだオリックス-西武-横浜、そして日本ハム。実働29年、捕手という激務で1550試合に出場。やっと区切りを付けた。

 支えてきた強い肉体、精神力。証明する逸話を最後まで残した。シーズン序盤の5月14日。体調を崩して39度の高熱。栗山監督が休養を助言したが、拒否。「絶対に休まない」。後輩らに悟られないよう、ひた隠してベンチ入りした。下肢の痛みもあったため細菌感染など炎症を疑い、精密検査。診断は風邪と因果関係はない、ふくらはぎの肉離れと判明した。いつ負傷したか自覚がないまま、コーチとして、選手としてグラウンドに立ち続けた。超人だった。

 難役に挑み続けた。06年。武田久とマイケルの勝利の方程式。セットで試合終盤に出場する「抑え捕手」として、44年ぶり日本一の立役者の1人になった直後のオフだった。指導者との兼任を打診され、受けた。その時、当時、球界の大先輩からは「オレは両立できるとは思わない」とも言われた任務だった。後輩の育成に尽くし、自分のことは後回し。「いつか、もう1度だけでいいから、コーチではなく選手一本で、若い選手と勝負させてください」。いつも却下されたが、球団側に訴え続けた。

 かたくなにこの日まで公言を拒んだが、人知れずサヨナラしてきた。9月6日、ほっともっと神戸。栄光のオリックス時代の本拠地、ラストだった。雨天中止。シートに覆われたグラウンド。ホームベースへ足を向けた。捕球姿勢をとった。数十秒…。懐かしい光景を目に焼き付けた。瞳は少し潤んでいたという。コーチとして全身全霊をかけるポストシーズンへ、もう1度走りだす。「オレ、高校出てから29年間、ずっとプロ野球だけやで。ちょっと、ゆっくりしたいな」。他の追随を許さない気力と、重荷をほどく。オンリーワンの苦しくも、すてきな物語を終えた。【高山通史】

<中嶋の捕手人生>

 ◆阪急時代 86年ドラフト3位で鷹巣農林(閉校)から入団。オリックスに球団名が変わった89年に正捕手をつかんだ。

 ◆西武時代 97年オフにFA移籍。正捕手に伊東勤(現ロッテ監督)がいたが、99年入団の松坂大輔(現ソフトバンク)の専属として多く起用された。

 ◆横浜時代 02年オフに交換トレードで移籍したが、03年は出場19試合に終わった。

 ◆日本ハム時代 03年オフに金銭トレードで移籍。05年はチームの捕手最多79試合出場。06年は守護神を務めたマイケル中村と相性が良く「抑え捕手」の起用が増えた。07年からバッテリーコーチ兼任。