日刊スポーツの大型連載「監督」の第7弾は阪神球団史上、唯一の日本一監督、吉田義男氏(88=日刊スポーツ客員評論家)編をお届けします。

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阪神の監督問題といえば、“事件”さながらのお家騒動だった。ロサンゼルス五輪イヤーだった1984年(昭59)、5年契約の3年目だった安藤統男(当時、統夫)が率いたチームは、前年と同じ4位に終わっていた。

10月12日。甲子園で秋季練習がスタートするその日、約1カ月前に留任が決定した安藤が突然、辞意を表明。西宮市内の球団事務所で球団社長の小津正次郎に引責辞任の意向を伝えた。

時間を合わせるかのように、大阪・桜橋にあった親会社の阪神電鉄も慌ただしい動きをみせた。本社社長の久万俊二郎が、社長室から当時7人の社員が詰めていた桜橋別館の西梅田開発室に電話をかけた。

本社トップから電話を受けたのは、西梅田開発室長の三好一彦だった。関西6大学野球連盟に所属していた神戸大の野球部主将だった三好は、大学時代に立命大でプレーする3歳年下の吉田義男を見ている。

53年入社の三好は野球通で知られ、秘書部に仕えた後、西梅田開発室で責任者のポストに就いた。久万は具体的に球団と関わりのなかった元秘書の三好を呼び寄せた。

三好は大学時代から吉田のプレーは知っていたが、親交は皆無だった。しかし、ここから三好は次期監督問題のキーマンになった。これを機に吉田と蜜月の間柄になっていくのだった。

久万と三好が会ったのはホテル阪神の一室。久万から「今、小津が球団で安藤を説得している」と説明を受けると、その部屋に球団事務所の小津本人から直接電話が入った。

三好は「わたしはその場で電話を取った久万さんから『小津が安藤が監督を続けるといってる』と説明を受けました。その場はほっとして解散したが、家に帰ると驚くべきことが起きていたのです」と明かす。

午後9時過ぎ、西宮市内の自宅に帰った三好は玄関口で家人から「パパ、今テレビで安藤監督が辞任すると言ってるよ」と聞かされた。そこには安藤が社長の小津、専務の岡崎義人と並んでの辞任会見が映し出されていた。

先ほど小津から安藤が翻意したといわれた報告とは、正反対の映像が流れていた。「一瞬、えっという感じで目を疑いました」。三好は翌13日のスポーツ各紙に「阪神にまたお家騒動 安藤突然の辞任」と掲載されていることを確認し、久万に連絡を入れている。

阪急-広島の日本シリーズ第1戦が、広島市民球場で開幕する日だった。先発は山田久志と山根和夫。朝から財界人野球大会に出掛けた三好は午後6時、再び本社トップの久万からホテル阪神に呼び出される。

「安藤の後任監督を西本幸雄さんに絞ったと聞かされ、すぐに要請したいので段取りするように指示されました。でもわたしは存じ上げなかった。それでも急げと言われました」

三好が人目に触れないように予約したのは、大阪・本町の大阪国際ホテル。10月14日、午後9時。そこに西本は現れた。【寺尾博和編集委員】(敬称略、つづく)