「マサカリ投法」で一時代を築いた名投手が天国に旅立った。ロッテ一筋で通算215勝を挙げた元投手の村田兆治さんが11日、亡くなった。72歳だった。独特のフォームで74年日本一の原動力になり、代名詞のフォークも武器に名球会まで駆け上がった。83年にはまだ珍しかった靱帯(じんたい)再建術(通称トミー・ジョン手術)で右肘にメスを入れ、本格復帰した85年は日曜日ごとに先発登板する「サンデー兆治」で開幕11連勝を飾った。日本選手では同手術初の成功例とされ、選手生命を伸ばす先駆けとなった。引退後も節制とトレーニングで体調管理を怠らず、還暦を迎えても130キロを超す速球でファンを魅了。ロッテの元エースで公私とも親しかった木樽正明氏(75)が、後輩との早すぎる別れを悲しんだ。

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同じくロッテ一筋で112勝を挙げた木樽氏は、弟分の急逝に耳を疑った。「彼は2歳年下で、トレーニング、食事、遠征やキャンプの部屋まで一緒でした。私に弟はいませんが、本当に弟のような存在でした」と悲しんだ。

ともに高卒でロッテ入りし、自身の3年目にドラフト1位で村田氏が入団した。当時の植村投手コーチから「面倒をみてくれ」と頼まれ、自主トレから常に行動をともにした。「球は速かったですよ。でもコントロールがね」。腰痛を抱えた69年はブルペン起用が主だったが15勝を挙げ、最優秀防御率も獲得した。2年目の村田氏は同年に1軍定着もリーグ最多の80四球。先発しても制球難で崩れることが多く、「火消し」を任された木樽氏が「オレを壊す気か!」と何度も口にした冗談には、本音も入っていた。

制球難解消の切り札が、「マサカリ投法」だった。木樽氏は誕生の瞬間を鮮明に覚えている。71年ごろ、同部屋だった遠征先の旅館で就寝中に起こされた。村田氏は「ひらめきました」と浴衣のまま布団をまくり、畳の上で一心不乱にシャドーピッチングを始めた。新フォームを最初に披露された木樽氏の第一声は、「かっこ悪いぞ」だった。

それでも「見たことのない投げ方で、本人のオリジナルだと思う。体が早く開くの抑えるため、たどり着いた結論。『やってみればいい』と。技術的なことは言わなかった」と背中を押し、努力を重ねる姿を静かに見守った。「強い下半身と柔軟性がないとできない。猛練習の男だからできた」と、同71年はともに先発ローテーションに定着。74年日本シリーズでは、先発の両輪として24年ぶりVをつかんだ。

コーチでは右肘手術のリハビリに立ち会った。85年1月の自主トレでは沖縄にバッテリー組が集まり、2軍投手コーチでキャッチボールを手伝った。距離は30メートル以内に制限されていたが、「投げたくて仕方ないから離れようとする。また痛めたら大変」と、フェンスで動けなくなるまで後を追った。同年の村田氏は開幕11連勝と完全復活した。

猛練習のイメージが強い村田氏だが、入団当初は腹筋も背筋も満足にできなかったという。両手にダンベルを持って軽々と両メニューをこなす木樽氏の横で、村田氏は涙を流して苦闘する毎日だった。「自分にも厳しい男でしたから、それからの練習は努力家そのものでした」と懐かしんだ。

最後に会ったには今年6月12日。コロナ禍で3年越しの開催となった著書の出版記念イベントに声をかけると、「木樽さんのためなら」と千葉・銚子まで駆けつけた。「ああいうキャラクターです。お客さんを大いに喜ばせてくれました」。夜は自宅で歓待し、思い出話に花を咲かせた。「それが最後になるとは。家族ぐるみの付き合いでしたから。家内も悲しんでいます」と、永遠の別れを残念がった。【中島正好】