日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。

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思いがけない訪問だった。先日、85年阪神日本一監督・吉田義男が、かつてのチームメートで名三塁手だった三宅秀史のおいにあたる、三宅伸(しん)から申し込まれた対面が実現した。

ショート吉田と、サード三宅は、史上最強の三遊間とうたわれた。三宅は21年3月3日に86歳で他界。叔父が名選手だったことを知っていた伸だが、吉田と直接会う機会がなかった。

今年6月、父親・修を亡くした伸は「もっと、叔父さんのことを知りたい」と強い気持ちに駆られたのだという。間接的にコンタクトをとって、吉田本人と顔を合わせることになった。

伸は競輪界で通算2776走、1着430回、優勝45度と活躍した有名選手だった。初のG1タイトルが39歳の遅咲き。全盛期は吉岡稔真、神山雄一郎の2強が君臨し、なかなかタイトルに手が届かなかった。

ただ、生涯獲得賞金10億8547万6931円が示すように、長く第一線で走り続けた。今年10月、現役生活に終止符を打った。

「叔父はぼくが生まれる前に引退していました。両親は『ケガをして早くにやめた』というぐらいで、なぜか叔父のことを話したがりませんでした。吉田さんと三遊間を組んでいたのは知っていましたから、プロの世界で生きた叔父がどういう人だったのか教えていただきたかったのです」

三宅の守備は巨人の名将水原茂をして「長嶋よりうまい」と言わしめた。連続フルイニング700試合出場は、04年に金本知憲が更新するまでのプロ野球記録。だが62年9月6日大洋戦(川崎)の練習中にキャッチボールの球が左目を直撃し、復帰後は視力が戻らず、67年引退に追い込まれる。

おいの伸も33年間の競輪生活を送ったが、その間、約30回骨折のアクシデントに見舞われるなど満身創痍(そうい)だった。「鎖骨を折ることなんてしょっちゅうで、すり傷みたいなものでした」。まさに叔父譲りの“鉄人”だったのだ。

初対面のレジェンドに対して伸は「どういうタイプのサードでしたか?」「ケガがなければ、どこまで記録が伸びてましたか?」などと矢継ぎ早に質問を浴びせ、吉田も現役時代をなつかしんだ。

「新人のときは、わたしが藤村富美男さんのバットを運ぶ用具係、三宅はボール係でした。最後に数を合わせるんですが、なかなか合わずに大変でしたわ。守備はオーソドックスでした。だれかが言ってましたが、長嶋は簡単なゴロを難しく捕るが、三宅は難しいゴロを簡単に捕ったとね」

当時、吉田が入院中の三宅を見舞うと、三宅はわざわざ病院を出てすし屋に現れ、吉田の姿を見て涙を流した。阪神の歴史を支えた伝説の三遊間コンビの別れの瞬間だった。

「わたしにとって三宅は“戦友”でした」という吉田に、伸は「ありがとうございます」と深々と頭を下げた。吉田と三宅。ほんの短い時間だが、お互いの心が通じ合ったようでもあった。(敬称略)