虎初代日本一監督の吉田義男氏(90=日刊スポーツ客員評論家)が14日、教え子でもある阪神岡田彰布監督(66)が監督通算484勝で球団歴代2位の同氏に並んだことを受け、特別寄稿した。【取材・構成=寺尾博和】

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後輩にあたる岡田が、私の監督通算勝利数に並び、そして越えていくのは大変うれしいことです。プロ野球界を支えた先人たちの歴代記録をたどれば、私の数字など取るに足りません。「記録は破られるためにある」と申しますが、まったく同感です。

ただ抜き去っていくのが岡田だったことが琴線に触れたのは間違いありません。彼は、私が2度目の監督だった1985年のリーグ優勝、初の日本一を遂げた際の主力選手で、腹をくくって決断した二塁転向で見事に復活し、私を男にしてくれた。

人生のはざまで苦楽を学び、リーダーに必要な条件を身につけた。そして阪神監督に復帰し、再び日本一の頂点に立ちました。そこにたどり着くプロセスでは、事あるごとに岡田の胸の内を推し量った思いがあるだけに、私自身もかねての念願を遂げた心境になったものです。

阪神で監督として戦うことがいかに困難かは、その座に就いた本人にしか分からないものがある。今では考えにくいが、私が率いた当時は、チームが敗れると、自宅に何件もの抗議電話がかかった。うちの嫁が座布団を受話器の上に置いて休むほどでした。

初めて監督になった最終年は、辞める気がないのにマスコミも騒がしくなって、結果引きずり下ろされました。2度目は村山がやるものと思ったら、“何か”が動いてお鉢が回ってきた。3度目の就任に白羽の矢が立ったのも、まさかでした。

過去を振り返ると、阪神の監督交代劇には、常に見えない力が働いたように思います。その意味では、監督に対する「本社」「球団」のバックアップが必要不可欠なのは、今も昔も変わりません。また家庭の安らぎは心の支えで助けられた覚えもあります。

歴代監督の勝利数でトップの藤本定義さんは「伊予の古だぬき」の異名をとった名将でした。村山、小山を育てながら、当時は珍しかったローテーションを組んだ。いつも先発ローテーションを書いた長い巻紙を後ろポケットに突っ込んでいたのを覚えています。

先日、甲子園球場で岡田と語り合ったばかりです。平田とも会い、今岡にも声をかけました。水口もあいさつに来てくれた。いつかまた岡田が現場復帰し、阪神を強くしてくれると願っていた。岡田が吉田を抜き、藤本さんを超えるのは、もはや時間の問題で、本望です。

監督は孤独です。時代は変わったと言われます。でも変わってはいけないものもあると、私自身は思っています。タイガースの歴史と伝統を継承し、常勝球団を築いてほしい。連続優勝のかかった年は一戦必勝で戦い抜くこと。岡田にとっては、あくまでも通過点に過ぎません。