俳優小林稔侍(76)が芸歴58年目にして映画初主演する「星めぐりの町」(黒土三男監督)が27日、公開初日を迎えた。1961年(昭36)に東映ニューフェースとして映画入りしてから57年。「自分の人生のような作品に出会えた」という、その思いを聞いてみた。

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 「この脚本をもらったとき、自分の人生のようだと感じた。仮に映像化されなくても、死んだら棺おけにこの脚本を入れてほしいと思った。そのような思い入れのある作品」

 来月7日には77歳になる。映画初主演だ。

 「まあ、長ければいいってもんじゃないですけど、57年ですかねえ。まあ、出会う人に出会えて、こういう運をもらえたのかなあというのは、つくづく思いますねえ」

 小林演じる主人公の島田勇作は、早くに妻を亡くして1人娘と2人で暮らしている。手間と時間をかけて豆腐を作り、移動販売をしている。ある日、警察官が11年3月11日の東日本大震災で家族全員を失った、亡き妻の遠縁の少年・正美を連れてくる。

 「そうですね、不思議な感じがしましたねえ。映画の主役なんてありえないと思っていましたから。今から20年ちょっと前には、話しはポロポロとはあったんですが実現はなかったんです。だから、一切そういう事は本当に思っていませんでしたね」

 撮影は昨年の春。愛知県の豊田市で行われた。

 「昨年の4月。すごく緑が多くて、田園といいますかね。1カ月近くはいたんですが、緊張しましたね。豊田市の皆さんが協力してくださいましたから。仕事以外で、はい。そう、品行方正でね」

 1961年、東映ニューフェース。

 「昭和36年ですね。成長しなくて恥ずかしいですよ(笑い)。当時の制度でいいますと、映画会社のニューフェースっていうのは幹部候補生なんですねえ、一応。それで、俳優座に放り込まれて、それで厚生年金その他、給料も安いですが全部付くわけですよね。だから、1銭もお金がいらないわけですよ。学校に行けば、お金要りますよね。だから、そういう意味では何も知らないで、田舎から来て偶然にも安全なところに(笑い)」

 大部屋生活が長かった。任侠映画に、その他大勢の役で出演。斬られ役、殺され役の大部屋俳優で結成されたピラニア軍団に所属していたが、もともとは幹部候補生。

 「まあでもねえ、皆仲間でしたから。現場ではね、お互いに一番、下っ端で。京都の撮影所で、ちょうどヤクザ映画ができたんですよ。あの頃まではスターシステムっていうか、市川右太衛門さん、片岡千恵蔵さんからはじまっていたものが崩れた。そこで、深作欣二監督が京都へ行って『仁義なき戦い』のシリーズを撮り始めたわけです。あの、僕は自分でも認めてるんですけど、協調性が余りなくてね。当時は、東京の撮影所と京都の撮影所っていうのは全く別なんですよ、社員も、所長も皆。敵対視しているんですよ。自分ところの作品が黒字になるかならないか、本社も、トップも、お互いこう、切磋琢磨(せっさたくま)させるんですよ。だから、僕程度の俳優は、京都には行けないんですよ。『ウチにもう、いっぱいおりまっせ』って事で、はっきりしてたんですよ」

 チャンスをくれたのは深作監督だった。

 「深作さんがかわいがってくださって、ピラニア軍団を作ったんです。それで、深作さんから声はかけてもらっていたんですが、ずうっと、返事をしなかったんですね(笑い)。そしたらある時ね、ピラニアの連中から電話がかかってきて『今日は、深作さんに叱られた!』って言うんですよ。『まだ稔侍は、ピラニア軍団に行ってないのか。保証人が要るんなら俺がなるっていってるだろう!』って叱られたって。それでね、ピンときたんですよ。深作さん、僕を京都に呼びやすいように、そういう道筋をつけてくれてるんだなあと。ピラニアの資格としては1番か2番なんですよ、僕は。でもねえ、徒党を組むのが嫌なんですよ。ええ、たったそれだけのわがままで行かなかったんです。だけど、それを聞いて、そこまで監督が考えてくれているんだなと思いました」

 ◆小林稔侍(こばやし・ねんじ)1941年(昭16)2月7日、和歌山県生まれ。61年東映ニューフェース。63年映画「警視庁物語 十代の足どり」で俳優デビュー。75年ピラニア軍団結成。映画では78年「冬の華」、81年「駅 STATON」、98年「学校3」などで活躍、99年に「鉄道員(ぽっぽや)」で日本アカデミー賞最優秀助演男優賞受賞。テレビでは86年にNHKテレビ小説「はね駒」の主人公の父親役で注目を集め、89年テレビ朝日系「なんでも屋奮戦記」でテレビ初主演。180センチ。血液型A。