上方落語の最長老、笑福亭松之助(本名・明石徳三=あかし・とくぞう)さんが22日、兵庫県内で亡くなった。93歳。明石家さんま(63)の師匠として知られ、5代目笑福亭松鶴に師事しながら吉本新喜劇や、故ミヤコ蝶々さんとも共演するなど、喜劇役者としても活動した。

近年は高齢から体調を崩すも、関係者によると数日前までは元気で、21日夜に急変したという。通夜、葬儀は未定。喪主は長男の落語家明石家のんき(51)が務める。

   ◇   ◇   ◇

上方落語界、不死身の最長老が力尽きた。16年3月に著書「草や木のように生きられたら」を発売して以降は、高齢から体調を崩すことも多く、兵庫県内の病院に入院するなどしていたが、今月18日には見舞客とコミュニケーションがとれるほど落ち着いていた。別の関係者によると、21日夜までは体調も変わりなく、急変だったという。

70代でもスポーツジムへ通い、趣味の水泳で体を鍛えていた松之助さんは、80代でなお、40分の長さがあるネタを演じるなど、衰え知らず。「さんまの師匠」をネタにし、孫世代の後輩からもいじられていた。

松之助さんは48年に5代目笑福亭松鶴に入門し、故6代目松鶴さんの弟弟子。吉本新喜劇では座長、61年には蝶々さんらと「スチャラカ社員」に出演するなど、喜劇俳優として活躍した。兄弟子らと一線を画した松之助さんは「わしは自由人」が口ぐせで、枠にとらわれない生き方を貫いた。

松竹芸能を経て67年に吉本興業に復帰。74年にさんまが弟子入りした。さんまは駆け出し時代、女性と駆け落ちし、無断で上京。戻ってきたさんまを無条件に受け入れた。松之助さんは生前「戻ってきたのは、気持ちを入れ替えてやり直すいうこと。怒ってもしゃあない」と話していた。

弟子時代のさんまが、要領よく家事をこなす器用さに目をつけ、落語家よりもタレントに向いているといち早く見抜いた。さんまから「師匠じゃなけりゃ、今の俺はない」と感謝され、それが至福の喜びだった。14年3月には6代文枝襲名興行で共演、さんまのテレビにもたびたび出演した。

人間的におおらかだった松之助さんだが、芸には厳しかった。故立川談志さんが、戦後の上方を代表する6代目松鶴さんと比して「6代目と同等」と評したほどだった。

さんまは23日に「COOL JAPAN PARK OSAKA こけら落とし さんま・岡村の花の駐在さん」を控える。舞台に穴を開けることを嫌った松之助さんは、さんまが舞台に専念できるよう願っていたといい、葬儀は近親者のみの家族葬で行われ、後日、お別れの会を開く予定だという。【村上久美子】

◆笑福亭松之助(しょうふくてい・まつのすけ)本名・明石徳三。1925年(大14)8月6日、神戸市生まれ。小学時代から落語に興味。48年に5代目笑福亭松鶴に入門。戦後の上方落語を復興させた四天王のリーダー格・故6代目松鶴さんの弟弟子。「宝塚新芸座」や、吉本新喜劇の前身「吉本ヴァラエティ」の座員としても活動。弟子さんまには、本名から芸名を与えた。映画や、NHK「まんてん」(03年)など、テレビでも活躍。得意ネタは「三十石」「らくだ」「野崎詣(まい)り」。