日本代表DF冨安健洋(22=ボローニャ)は17日の東京五輪スペイン代表との国際親善試合に先発し、自慢の俊敏な動きで貢献した。そのベースは、小1~6年まで所属した地元サッカークラブの三筑キッカーズ(福岡市)で築かれた。身体能力の高さを見抜いた辻寛二監督(70)の誘いで入団。年間300試合をこなすなどして、潜在能力を開花させ、今につながっている。【取材・構成=菊川光一】

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三筑キッカーズが冨安のサッカー人生の原点だ。「走り方がすごくきれいで、足さばきが速い。今までになかった感覚でした」。辻監督は訪問先でたまたま見かけた冨安の走りに衝撃を受け、すぐにクラブに勧誘した。

小3で足のサイズは23センチで、小4時の体の大きさは小6並みだったという。恵まれた体格に加え、瞬時にトップスピードに持っていける俊足もあり、入団後に週末の1日3試合など年間約300試合をこなすなどして著しく飛躍した。

辻監督によると、練習試合の攻守のパフォーマンスがあまりに高すぎて、他チーム監督から「同じ学年ではついて行けない。出たら(選手が)ガックリするから、試合に出さないでくれ」と、懇願されたこともあったという。「スーパー小学生」として、上級生にまで恐れられる存在だった。

元日本代表のガンバ大阪MF井手口陽介(24)と堂々と渡りあったことがある。福岡・油山カメリアFC時代、FWだった2学年上の井手口と試合でマッチアップしても負けてはいなかった。「足が速いからついて行くし、からんでいた」。といい、俊敏な動きはすでに「代表クラス」だった。

親のDNAも受け継いだ。「お母さんは陸上でいい選手だったみたい。お父さんは剣道をされていた。(冨安は)小中で走りは負けたことがないんじゃないかな」。中学では、リレーで半周遅れてバトンを受けても異常なスピードで抜き去る韋駄天(いだてん)だったという。

性格については「素直さと向上心が一致していることが、今の冨安をつくった」。「小4の頃、コーチから『もっとスピードアップしないと上ではやっていけないよ』と言われ、初めて顔色を変えた。もっと技術を上げないといけないとね。あの頃から日本代表へ憧れていましたから」と、小学生で代表入りを見据えていた。クラブを卒団する際のアルバムには「プロサッカー選手になって、両親に家を買ってあげたい」と記した。親孝行な家族思いの一面もあった。

努力家でもあった。「ひと月に普通の子の倍成長していた」という。クラブ練習や試合後も毎日、遅いときは夜9時まで自主練習に取り組んだ。チームメートのほとんどがテレビゲームを持っていたが、サッカーに打ち込むため冨安だけ持たなかった。三筑キッカーズは、冨安のベースを培った場所だ。

◆冨安健洋(とみやす・たけひろ)1998年(平10)11月5日、福岡市生まれ。サッカーは小1から三筑キッカーズで始める。小5からバルセロナスクール福岡校にも通う。中学からアビスパ福岡の下部組織で育ち、高2でトップチーム2種登録、16年昇格。18年移籍のベルギー1部シントトロイデンを経て19年からボローニャでプレー。18年から日本代表。188センチ、84キロ。