「みなさんにとって1センチは小さなものでしょう。でもそのわずか1センチのためにどれほどの努力と準備を必要とするのか……」。そこで言葉は途切れたが、その顔は“分かってほしい”と訴えていた。
1991年の陸上の世界選手権東京大会。男子棒高跳びで世界記録保持者のセルゲイ・ブブカ(当時ソ連)が3連覇を達成した。左足かかと痛で世界記録には挑まなかったが、会見で「なぜ世界記録更新がいつも1センチずつなのか」という皮肉交じりの質問に、顔色を変えてこう答えた。
9月15日、同じ東京・国立競技場で行われた世界選手権の男子棒高跳びで世界記録保持者のアルマンド・デュプランティス(スウェーデン)が3連覇を達成した。彼が6メートル30を跳んで自らの世界記録をまた1センチ更新した時、あの34年前の“鳥人”の言葉を思い出して、1センチの重みがズシンと胸に響いた。
東京で2度目の世界選手権が最終日を迎えた。アスリートたちは勝者と敗者の関係なく、誰もが1センチ、100分の1秒のために、常人では想像もできないほど、長い歳月をかけて、己の肉体と精神を極限まで鍛え上げ、スタートラインに立っているのだ。彼ら、彼女らの歓喜と涙に、それをあらためて感じた9日間だった。
34年前から記録は飛躍的に伸びた。男子100メートルで優勝したオブリク・セビル(ジャマイカ)が決勝でマークした9秒77は、カール・ルイス(米国)が出した世界新記録9秒86を0秒09も上回った。男子400メートル6位入賞の中島佑気ジョセフ(23=富士通)が予選で出した44秒44の日本新記録は、日本人初のファイナリストになった高野進の記録より0秒34も速かった。
陸上競技の記録は、その時代における人類の進化の到達点でもある。シューズを始めとする用具の開発、トレーニング法、スポーツ科学、栄養学、医学……あらゆる分野が“より速く、より高く”を追求して結集した結果、時代が少しだけ前に進むのだ。
東京でルイスは115グラムの超軽量シューズをはいていた。「はだしの感覚に近づけてほしい」という本人の希望で、当時最先端の技術で開発された。今回、セビルら短距離選手がはいていたのは、現代のバイオメカニクスが生み出した靴底に反発力の高い素材を入れた厚底シューズだった。
新記録を目にすると「○○超え」などと私たちは簡単に口にする。でも人類が進歩を続けている以上、記録はいつか破られる。当然のことだ。だから時代を超えてアスリート本人を比べることなど本当はできないのだ。それが34年前を取材した者の感想である。
今大会、もっとも印象に残ったのが男子110メートル障害で5位入賞した村竹ラシッド(23=JAL)。「これだけ打ち込んできたのに何が足りなかったのか。何年かってもメダルを狙い続けたい」と悔し涙を流した。表彰台まで0秒06。そのほんのわずかな時間を埋めるために、長く、過酷な自分との戦いがまた始まるのだ。エールを送りたい。彼の覚悟を聞いて、そう思った。【首藤正徳】(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「スポーツ百景」)



