「オトウチャン、オバアチャンハ、8ガツ17ニチニシニマシタ。ホントウノコトオイウト、オトウチャンガカワイソウダトオモッタカラ。ゴメンナサイネ」。

1962年(昭37)、モスクワ世界選手権を前に、日紡貝塚を率いて、欧州を転戦していた。届いた手紙は、当時8歳の次女、緑さんからだった。遠征出発日の8月18日、空港から電話した時、緑さんはけなげにも、「おばあちゃんは元気や」と答えていた。大松はカタカナつづりの手紙を握りしめた。

【証言】宮本恵美子さん「先生は、世界選手権に勝って、おふくろの墓に花を供えてくれや、と言いました。私たち全員が、それで結束して、高揚しました。やろう、と」。

そのままモスクワに入り、11月の世界選手権に単独チームで挑戦した。決勝リーグ3日目のソ連戦は第1セットを落としたが続く3セットを連取して逆転勝ちした。ブラジル、ブルガリア、チェコを完封して、ついに世界の頂点に立った。守りを固めた、当時は新鮮な戦法だった。

【証言】梶山記者「河西を筆頭に、2、3歳ずつ年齢の違う選手が、それぞれの個性を失わずにまとまっていた。スターもつくらなかったが、一つの型にはめないのが大松さんの方針だった」。

【証言】毛利泰子さん(63=元NHKディレクター)「大松さんには人を魅了する何かがあった。あれだけの猛練習にも選手がついていったのは人柄でしょう。“選手の相談役になってほしい"と頼まれると、私もその気になりましたから。あれだけの指導者がまた現れるかどうか」。

本人も、適齢期の選手たちも、この世界選手権で引退と考えていた。一方、2年後の東京五輪でバレーボールが正式種目に採用される。祝勝会で辞意を漏らすと、大騒ぎになった。以後2カ月間に約5000通の手紙が届き、その半数は「お前たちがやらなくて、だれがやるのか」。大松自身も疲れ果てていた。その年の暮れ、正月休暇で故郷(くに)に帰る選手たちに言った言葉は、「ゆっくり相談してこい。お前たちがやるなら、わしもやる」だった。

【証言】半田百合子さん(55=現姓・中島)「私は当時婚約者がいて、もうやめるつもりで栃木へ帰りました。彼がもう少しやっていいと言ってくれたので、決心をしましたが、五輪までの2年間は正直しんどかった」。

「オリンピックなんて私には関係のないこと」と言っていた河西も、迷った末に翻意した。年が明けた正月4日、大松家に全員が集まった時、「先生、皆で話し合った結果、やります。だから、お願いします」と頭を下げた。

この話し合いを、美智代夫人は黙って聞いていた。

【証言】大松美智代さん(63)「世論の動きから、どうしようもない状態でした。五輪まで、また“下宿人とお手伝いさんの関係"かと、ため息をつきました(笑い)。子供たちには酷でしたが」。

腎臓(じんぞう)病で体調が悪かった増尾光枝(現姓・高城)だけが引退。代わって19歳の若い磯辺サタ(現姓・丸山)が加入した。日本代表12人のうち、近藤(倉紡)渋谷(ヤシカ)以外は全員ニチボーだった。 【特別取材班】(つづく)

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