8月、休みをとって志賀高原に行ってきました。ちょうど20年前、このスキー場は長野パラリンピックのアルペンスキー会場でした。当時のスタートハウスが記念碑として残されていて、滑降で金メダルを取った私の名前も刻まれていました。記念館には私が乗っていたチェアスキーや板も展示されていて、懐かしくて、うれしかったですね。

現役時代にお世話になったゲレンデ前のホテルの経営者にも、久しぶりにお会いできました。長野大会後、資金難などでナショナルチームが解散して、私は練習場所を失いました。そんな時「ここに泊まって練習すればいい」と声を掛けてくれた恩人です。その方の紹介で中高生や大学生と一緒に練習させてもらえたので、競技を続けることができました。

彼は元選手で長野大会のコース係長でした。私1人で滑るときにはポールをセットしてもらったり、ビデオを撮ってもらったり、随分と手伝っていただきました。現役時代は本当に多くの人に支えられていたのだと、久しぶりに訪れた志賀高原であらためて感じました。ちなみに、そのホテルは長野大会をきっかけに、階段しかなかったお風呂への道程にスロープを付けたりして、バリアフリーに変わりました。

一面夏の緑に覆われたコースを見ていて、長野大会を縁の下で支えた自衛隊のことも思い出しました。雪が積もった急斜面のコースは、積雪を排除して人が踏み固めなければ、圧雪車も入れません。毎日レース後、自衛隊の方々が隊列を組んでコースを上下して踏み固めていたのです。作業は朝方まで続いたと後で聞きました。おかげで整備されたコースで力を発揮することができました。

さまざまな人の協力、応援を空気感として感じられる。それこそが自国開催の利点なのだと思います。頑張れという声なきメッセージが、選手の戦う活力になっていく。20年東京大会もたくさんの方々に支えられて開催されます。選手にもそれを感じてほしい。きっと戦うエネルギーになるはずです。私も経験者として伝えていかなければならない。懐かしい志賀高原の景色を見ながら、そんなことを考えました。

◆大日方邦子(おびなた・くにこ)アルペンスキーでパラリンピック5大会連続出場し、10個のメダルを獲得(金2、銀3、銅5)。10年引退。現在は日本パラリンピアンズ協会副会長で、平昌パラリンピック日本選手団長を務めた。電通パブリックリレーションズ勤務。46歳。