日本を代表するパラアスリートがもがき、苦しんでいる。車いすフェンシングの安直樹(41=東京メトロ)。車いすバスケットボールの名選手が新たなチャレンジを始めて3年8カ月がたった。競技の奥深さ、世界との差を痛感し、国内の競技環境に悩まされながら20年東京パラリンピックでメダル獲得の夢を追う。12月13日から4日間、京都で日本で初めてW杯が開催される。フェンサー安にとって結果が求められる大会になる。

 

練習拠点の国立スポーツ科学センターで汗を流した安は、フーッと息を吐き出して言った。「やればやるほど、知れば知るほど難しい。突いてポイントを取って勝つ、という簡単なものではないんです」。車いすをピストに固定する1対1の逃げ場のない戦い。勝負は一瞬で決する。健常者のフェンシングとはまったく別の競技だという。

東京でメダルを手にするためにバスケットからの大胆な転身を明かしたのは、15年3月だった。同年の世界選手権で勝利を挙げ、16、17年の日本選手権フルーレを連覇。順調に滑り出した挑戦はキャリア3年を超えた今、壁にぶち当たっている。「逃げ場がないから、駆け引きと組み立てが大事。自分で考え、感じて実行することが難しく、迷いながらやっている状態」。

チームから個人競技へ。バスケット時代の持ち味だった俊敏な車いす操作は役に立たない。昨秋から個人コーチがついて技術面は向上しても、試合感覚を学ぶには経験に勝るものはない。しかし、同じAクラス(腹筋が使える)の選手が国内に4人しかいない現状が立ちはだかる。その影響からか、今月のW杯ジョージア大会はメイン種目のサーブルが32位でフルーレとエペは1次リーグ敗退。20年東京出場をかけたランキングレースがスタートした大会で、最低目標のベスト16に届かなかった。

多くの競技の中からフェンシングを選んだのは「経験してみて純粋に楽しかったから」。この気持ちがある限り、逃げ場のない戦いに苦闘してもしっかりと前を向ける。「東京が迫る中で試合感覚を習得する別の方法を見つけたい。答えを出すためにもがき苦しんでいるんです」。

バスケットでは日の丸を背負って戦った。日本人初のプロになり、世界のトップ選手が集うイタリア・セリエAの過酷なレギュラー争いに生き残った。東京メトロの社員として競技に専念できるのも、アスリートとして金メダルに値する経歴を誇るからだ。「期待されているし、そろそろ世界で結果を出さないといけないですね」。その機会が来月の京都になるのか。日本初のW杯が待っている。【小堀泰男】

 

◆安直樹(やす・なおき)1977年(昭52)10月6日、茨城県ひたちなか市生まれ。14歳の時に左股関節の病気で手術を受け、医療ミスで重い後遺症が残ったが、高校入学後に車いすバスケットボールを始めた。千葉ホークスで03年に日本選手権優勝、MVP。05年から同選手権3連覇。日本代表として04年アテネ・パラリンピック出場。米国、オーストラリアのクラブを経て07年から3年間、日本人初のプロ選手としてイタリアでプレーし、セリエAでも活躍した。14年7月に車いすバスケット引退を表明し、15年3月に車いすフェンシング転向。

 

◆車いすフェンシング ピストと呼ばれる試合場に選手の腕の長さに応じて距離を調節して車いすを固定し、上半身だけで競技する。用具、装備は健常者と同じ。クラスは腹筋が使えるAと使えないBの2クラス。種目は3つでフルーレは胴体だけの突き、エペは上半身の突き、サーブルは上半身の突きと斬りで争われる。試合は通常、1次リーグ(4分5点制)決勝トーナメント(9分15点制)の形式。東京パラではフルーレ、エペの団体戦(クラス混合)を含めた男女16種目が行われる。

 

◆20年東京への道 今月上旬に行われたW杯ジョージア大会から東京パラリンピック出場に直結するランキングポイント争いがスタートした。12月のW杯京都大会が第2弾になる。出場枠は男女個人6種目、計12種目に8人ずつの96人。日本車いすフェンシング協会によると、各種目でランキング上位8位以内に入っていることが絶対条件で、20年3月31日以降に国際車いす切断者競技連盟(IWAS)が出場者を決定する。地域枠、開催国枠については未定で、すべてIWASの裁量によるという。