日本柔道界に「新種」が誕生した。男子90キロ級決勝でベイカー茉秋(ましゅう、21=東海大)がバルラム・リパルテリアニ(ジョージア)を下して優勝した。階級変更前の86キロ級を含め、この階級の金メダルは日本勢初の快挙。これまでの常識では測れない独自色豊かな新王者には、支え続けた「父」がいた。

 朝からステーキ!

 数時間後に金メダリストになるベイカーの朝は豪快だった。ぺろりと平らげると予感が。「朝食もよく入ったし、夜もしっかり寝れたし、いけるんじゃないか」。

 左の引き手を絞って腰を引く独特のスタイルで一本勝ちを重ねた。両手で相手の道着をしっかり持つ日本の伝統ではない。パワー自慢の外国勢を真っ向から迎える鋼の肉体がなせる戦いで、初戦はなんと試合で初の背負い落とし。準決勝では残り40秒で指導を取られるも「投げて決めよう」と焦らない強心臓。直後に大内刈りから有効、抑え込みで一本勝ち。決勝前には「3回吐いた。初めて」も、「(体が)軽くなった」と、中盤に大内刈りで有効奪取。最後はリードを守るために逃げを打ち、「井上監督のように内股で勝ちたかったけど…」と悔しそう。

 小学校の卒業文集には、同監督の00年シドニー五輪決勝を念頭に「切れのあるかならず一本をとる柔道」を目標に掲げていた。ただ、その同監督は「恐るべし。最後(逃げ)は執念と思ってください。新種の選手」と絶賛。両手の指を天に指すガッツポーズに「格好良かったですか?」とノリノリで逆取材する姿は、まさに新種全開だった。

 ステーキは高2の高校選手権でも食べた。100グラム1000円の肉を300グラム。一本勝ち連続46試合の驚異の記録を作った4年ほど前、食べさせてくれたのが運命の人だった。当時、千葉・東海大浦安高の竹内徹監督(56=同中教員)。「先生は僕のことを本当に理解してくれた。お父さんみたい」と慕う。

 入学直後だった。「茉秋」。そう呼び掛けられると、思わず体がびくっと反応してしまった。小中と怒られるのが日常。呼びかけに恐怖感が体を巡った。ただ“父”は違った。「どうした?」と優しく肩を抱いて引き寄せてくれた。それだけでうれしかった。

 当時は170センチ、66キロ級ながら、6月の試合で190センチの選手に果敢に奥襟を狙って飛びつき、接戦を演じた。その度胸に「義経だ!」とほれ込まれた。「ウナギ好きか?」と1尾3000円もする特上を買い、自分の家族には並に抑える。寮内にあった竹内家ではこの頃、「また茉秋かぁ」が流行語。同監督は高校時代、2学年上の山下泰裕氏が特別目をかけられる姿を見ていた。「この子は五輪で勝てると思ったら、それはひいきではない」。そうできる幸せを感じた。

 ベイカーも「新種」らしく、勝つためなら遠慮せずに要求した。夜遅くまで筋トレをするため、朝練をやめてほしい。体重は筋肉で増やすため、タンパク質重視の食事をしたい。すると監督の妻るり子さんが補食用に1日3食分の特製弁当を作ってくれた。1日7食は、90キロ級まで体重を増やすには必須だった。筋肉に体は覆われていった。

 今年4月、再び関係は濃密になった。全日本体重別決勝で負けた夜、電話した。「足りないものがある。指導してくれませんか」。得意の大内刈りの軸足の踏ん張りが弱いと言われ、鍛え上げた。この日、大内刈りこそが生命線だった。

 いまその“父”に「体調は大丈夫ですか」と小まめに声をかける。昨年の世界選手権直前に、良性の脳腫瘍が発見された。摘出手術の日が試合に重なった。畳の上と病室、場所は違うがともに戦った。そこで銅メダル。リオへの足がかりを築いた。「去年、早期に発見できたのはこの五輪に行くためだったんですかね」。“父”はそう理解する。

 「すごく支えてくれたので、勝って恩返ししたいと思っていた。すごく感謝しています」。引き寄せてくれた手、触れられた肩、そこから始まった“親子”の縁。「柔道の人気を爆発させたい。東京で連覇したい!」。その願いがかなうまで絆はさらに深くなる。【阿部健吾】

 ◆ベイカー茉秋(ましゅう)1994年(平6)9月25日、東京都生まれ。文京一中-東海大浦安高-東海大(4年)。12年全国高校総体優勝。15年世界選手権で3位に入った。得意は大外刈り。178センチ、90キロ。