ハリルホジッチ監督(当時)が「私のフランス語がもっとうまければ」とこぼしたことがある。語学力というより、通訳を介してしか意思疎通できない選手とのやりとりに、歯がゆさを覚えたようだった。

 旧ユーゴスラビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ生まれ。今はフランス国籍を持ち、自宅も同国リール。もちろんフランス語を話すが、母国語ではない。

 フランス語での意思疎通には一切不自由しないが、日本人への指導は通訳が入る。そこに問題が生じていた。かなり早い段階で樋渡通訳による日本語訳に、選手が疑念を抱いた。いわく「本当に監督がああ言っているの?」と。樋渡通訳はパリサンジェルマンの下部組織で監督も務めた気鋭の指導者だが、通訳のスペシャリストではなかった。そのバックボーンも選手の疑念を助長してしまった。

 日本協会は現場の空気をすぐ察知。フランス語が堪能な日本人の関係者を会見場に入れ、監督の意図が正しく伝わっているかをチェックした。樋渡通訳の能力はまったく問題なく、意思疎通に問題ないことがすぐに証明された。

 ただ、1度選手の頭に浮かんだ「?」マークは、なかなか消えない。17年3月。スペイン語通訳としてアギーレ監督を支えた羽生通訳が、持ち前の語学センスと努力でフランス語をあっという間に身に付けた。W杯アジア最終予選の途中で通訳は2人体制になった。ソフトで経験豊富な羽生通訳が加わることで、選手とのコミュニケーションは少し改善された。

 16年10月にはリオ五輪で日本を率いた手倉森コーチも復帰した。コミュニケーション能力の高い2人のテコ入れで、チームは何とか持ち直しW杯出場権だけは確保した。

 その一方で日本協会上層部のハリルホジッチ監督を支える姿勢もぐらついていた。

 田嶋会長は「コミュニケーション、信頼関係」を理由にクビを切った。ただ、指揮官は、時間の経過とともに孤立していった。“外堀を埋めた”のは、田嶋会長その人の人事だったことも忘れてはならない。

 15年に同監督を招聘(しょうへい)したのは、大仁前会長(現名誉会長)のもとで動いた霜田技術委員長(当時、現J2山口監督)の仕事だった。だが、16年1月に日本協会初の会長選で当選した田嶋会長は、3月の新体制発足と同時に、霜田氏を降格させ、技術委員長に西野氏(現監督)をあてた。霜田氏は結局、16年限りで協会を辞め、指導者に転身した。

 ハリルホジッチ監督は、就任当初から霜田氏をベンチに入れ、隣に座らせた。日本人選手の特徴を聞き、チーム作りを進めていた。2人は厚い信頼関係で結ばれており、霜田氏がとげのある指揮官の言葉を和らげることもあった。就任時の会長が退任し、頼りにしていた同氏も職を追われるようにいなくなった。もちろん現場のサポートはあったが、最後にはその座を、技術委員長に取って代わられるという、何とも皮肉な結末を迎えた。【八反誠】(つづく)