2016年で現役生活にピリオドを打った名選手が、現役生活を振り返る特別企画「人生第2章~アスリートの引退」。

 サッカー元日本代表DF市川大祐(36)の第3回。高校生で日本代表にデビューし、キャリアの前半にピークを迎えた市川は、10年に清水を退団後、5シーズンで5クラブを渡り歩いた。その中、常に現時点での自分を見詰め、前向きに戦い続けることができた“市川的ライフスタイル”に迫った。【取材・構成=村上幸将】

◆1部から5部まで全カテゴリーでプレー

 市川は高校時代に天皇杯、Jリーグにデビューし、98年4月1日の韓国戦(ソウル)で、17歳322日の日本代表最年少出場を記録した。02年にはW杯日韓大会に出場と、キャリア序盤に頂点を経験した。一方で30歳の10年に清水を退団し、16年にJFLの八戸で引退するまでJ2、J3、地域リーグと、1部から5部まで全てのカテゴリーでプレーした。何を思い、戦っていたのか。

 「好きで始めたサッカーを、自分の仕事に出来ていることが幸せでした。カテゴリーが変わっても、ボールは1個。選手の人数が増えるわけでもないし、ルールも変わらない。J1だろうが地域リーグだろうが、2万人のスタジアムであっても、1000人に満たないところであっても、同じように緊張するし、勝ったりアシストすれば跳び上がるくらいうれしい。熱くなれたことが、いろいろなカテゴリーでプレーできた理由かな、と思いますね」

 03年に右ひざ半月板を損傷して以降、苦闘が続いた。こんなはずじゃなかったとは思わなかったのか。

 「人生に『たら』『れば』はないじゃないですか。18歳でW杯フランス大会のメンバーに入らず、02年のW杯日韓大会に出て、もっと上に行けたんじゃないかと言われたりもする。自分が最初に思い描いたのは、03年に海外へ行くこと。それが出来なくて(24歳で迎えた)05年はダメだったら引退しようと思うところまでいった。現実をしっかり受け止め、一瞬、一瞬を本当に、真剣に向き合うことが何よりも大切。できることをしっかりやったからこそ、36歳までプレーが出来た。苦しいと思う中でも必ず光はある」

◆海外で挑戦したい思いあった

 理想が現実に近づいた瞬間があった。02年W杯日韓大会に出場後、03年1月にフランス1部ストラスブールの練習に参加した。

 「(広島や千葉でプレーした)イワン・ハシェックが監督を務めていて、テストを受けたいということで行った。『今からでも一緒にやらないか』と、すごくいい反応をもらったんですけれど、まだ清水との契約が残っていて『契約が1年あるんです』と伝えた。日本に戻って半年で、ハシェック監督が辞めて僕も右ひざをケガした。海外で挑戦したい思いはありましたが、考えづらくなり、強い思いは持たなくなりました」

 右ひざに不安を抱え、引退覚悟で臨んだ05年に、その後のサッカー人生を決める心境の変化があった。

 「『市川だったら、こうプレーする』とか、周りの求める理想はあるわけで、自分の中でもプレーの理想があったんですけど、考えないようにして、捨てました。今、考えると…理想と現実(の折り合いの付け方)は非常に難しいですけれど、現実の中で、自分はやれることはやってきたと思っています。もしかしたら10年後に、この話を考えた時には、まだまだ甘かったなと思うんだろうし…それが成長だと思います」

 選手であれば、誰もがいつかは衰え、第一線を退く日が来る。過去の栄光にとらわれず、競技に向き合うことが大切だと訴える。

 「日本代表で試合に出た選手がJ2、J3、JFL、地域リーグでプレーする場合、日本代表だったのは過去のことで、現在の自分の立ち位置を自分自身で常に理解していないとできないと思います。(下のカテゴリーで)やるんであれば、そういう考えを持っていないと、そういう場にいてはいけないと思います」

 年齢を重ね、立場や戦う舞台が変わっても学び続ける姿勢は変わらなかった。

 「いろいろな選手、指導者、土地の人々に会って支えられました。僕の立場からすると、求められるのは伝える側じゃないですか? でも、逆に学ぶことがものすごく多く、それが財産。全てのカテゴリーでプレーしたということは、今後のすごく大きな力になると思いますし、すごくいい時間だったと思いますね」

◆本当の楽しさは真剣にやる中にある

 あえて聞いた。「現役時代を振り返って…良かったと思いますか?」

 「次に向かう活力があるということは、非常に良かったということじゃないでしょうか? (引退は)難しい判断でしたけど、どこかでしなければいけない。まだやれる…と思っていますけど来季、できるか分からないところが、すごく強かった。自分で決めたんですけど、周りに伝える言葉にすることにはパワーが必要で、なかなか伝えられなかった。伝えてからは、残りの試合で、どう自分がサッカーと関わっていくのかも考えました。何か、することを決めて辞めたわけじゃないですけど、いろいろな方とお話しする中で、サッカーの良さが、あらためて強く感じられた。そういうサッカー人生を送って来られたと考えれば、すごく良かったと思います」

 サッカーの良さとは?

「今、考えたら…つらいこととうれしいことと言ったら、もしかしたら、つらいことの方が多いかも知れないですけど、プレーすると忘れられる。1つ、一瞬のことで、つらさがスッと…消えるまでいかないこともありますけど、薄れていく。喜びが倍増したり…そこには、ドラマみたいなものもあるわけじゃないですか」

 今後はまだ決めていないが、やりたいことはある。

 「今後の方向性をしっかり決めて、サッカーに傾けた情熱を次の仕事にも、同じように持って進んでいきたいと思っています。人は、それぞれ人生があり、終わり方には、いろいろな考えがあるとは思う。自分は、これだけ経験してきたので、サッカーに携わって、しっかり伝えていくことはしたいと強く思っています。実際にやってきたことを話せるのは、僕にとって大きなものだし、言葉の重さは違うと思います。『楽しんでやろう』と言うと、フワッとした印象になりますが、本当の楽しさというのは、真剣にやる中にあると僕は思っている。楽しむという本当の意味を理解しないと感じられない。真剣にやった中にある、本当の楽しさを伝えていけると思うし、周りの選手には感じてもらいたいと思います」

 栄光、挫折、歓喜、苦悩…30代にして酸いもあまいもかみしめた市川の人生は、激動の時代を生きるヒントになる。

(おわり)

 ◆市川大祐(いちかわ・だいすけ)1980年(昭55)5月14日、静岡県清水市(現静岡市清水区)生まれ。高部小(現清水高部小)1年でサッカーを始め、93年に清水ジュニアユースに加入。96年にユースに昇格し、清水工業高(現静岡県立科学技術高)2年の97年12月14日の天皇杯2回戦・福島FC戦で後半40分に出場(3-0勝利)。98年3月21日のJリーグ開幕戦・札幌戦で先発。同11月14日の市原(現千葉)戦でJリーグ初ゴール。11年に甲府、12年にJ2水戸、13年にJFLの藤枝(翌14年はJ3)、15年に四国リーグのFC今治、16年にJFLの八戸に移籍し、16年11月13日の栃木ウーヴァ戦にフル出場し引退。J1で347試合出場12得点、J2で32試合出場1得点、J3は6試合出場、JFLは28試合出場2得点、天皇杯38試合出場3得点。国際Aマッチ10試合出場。181センチ、74キロ。家族は妻と2女。