サッカーを中心に独自の視点で多岐にわたる話題を深く掘り下げる、Jリーグ村井満チェアマン(60)のコラム「無手勝流(むてかつりゅう)」。今回は26日に川崎フロンターレの初優勝で幕を閉じたルヴァン杯の、隠された物語についてです。組織のトップに立つ者が貫くべき「誇り」とは何なのか。ピンチを乗り越える際に必要な考え方とは。「ナビスコ杯」から「ルヴァン杯」へと名称が変わった際のサイドストーリーは必読です。

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人は困難に直面した時、すっぱり諦めてしがらみを捨てるのか、それとも我慢し続けるのか。いずれの場合もその後の運命を大きく変えるように思います。その両面のすごみを、ヤマザキビスケット社の飯島茂彰社長から教えられました。

Jリーグの主な大会には、リーグ戦形式の「明治安田生命Jリーグ」とワールドカップ(W杯)のようにグループステージとノックアウト方式を組み合わせた「ルヴァン杯」があります。後者はヤマザキビスケット社の主力商品の名を冠した大会で、「プロサッカーリーグが主催し、同一企業の協賛では世界で最も長く開催された大会」としてギネス世界記録にも認定されています。

ヤマザキビスケット社は2016年に大きな転機を迎えました。1970年の創業以来、半世紀近くにわたり使い続けた愛着ある「ヤマザキナビスコ」という社名を、9月1日付で現在の「ヤマザキビスケット」に変更しました。

ナビスコというブランドは米国の法人が保有するもので、日本側はライセンス契約によってナビスコブランドを利用していました。日本におけるナビスコ事業が成功する一方で、契約期間の短縮を求められたりライセンス料の増額を要請されたりと、米国側の要求は次第にエスカレートしたとのこと。最終的には、日本における販売権の譲渡を言い渡されたそうです。

これまで製造から流通・販売まで一貫して担うことでブランドを育ててきたのに、商品の製造だけを委託される“下請け”の立場になることを求められたわけです。我慢を重ねて飯島社長もついに堪忍袋の緒が切れたのでしょう。「ナビスコ」とのライセンス契約解消を決断します。それは同時にリッツ、オレオなど従来のライセンス契約商品100億円分の売り上げが減少することを意味します。ですが、飯島社長はその売り上げを捨ててまで、日本市場を育ててくれた従業員、流通業をはじめとしたパートナーのプライドを守ったのです。

それと共に、飯島社長がかたくなに守り続けたものがあります。Jリーグカップへの協賛の維持でした。驚くべきは新社名「ヤマザキビスケット」や新たな自社商品「ルヴァン」のPRだけではなく、社名変更日を境に競合商品となる「ナビスコ」のPRも辞さないと話されたのです。社名変更が9月、リーグカップ決勝が11月。「大会の途中で名称変更をしてはJリーグに迷惑がかかる」と決勝までは身銭を切ってまで競合ブランド「ナビスコ」を名乗る「ナビスコカップ」として継続しようとしてくれていたのです。

私はそこまでご配慮いただいたことに鳥肌が立つような思いが止まりませんでした。Jリーグはすでにノックアウトステージに向けて「ナビスコ」の名でポスターや看板の発注もボールの製造も終えていたのですが、すべてを一からやり直し、9月からの「ルヴァン杯」名称変更を決めました。前代未聞ともいうべき期間中の大会名称変更です。プライドと義理を守るために信念を貫く飯島社長にせめてもの恩返しをとの思いでした。

27回目の「ルヴァン杯」は川崎フロンターレが初の聖杯を獲得しました。栄冠の裏側には大会を支えるヤマザキビスケット社の覚悟と信念の物語があるのです。