「日本代表の日本化」

06年7月21日。W杯ドイツ大会敗退後、日本代表再建を託されたイビチャ・オシム監督(当時65歳)が就任会見で日本中に発信した言葉だ。今でこそ、日本らしいサッカーを口にする代表監督が多いが、それまでは“強国のサッカーを見習う”ことで、世界に近づくことができると思う風潮があった。

この「日本化」は、その会見の中で、オシム監督が説明している。

「これから日本代表を強化するにあたり、まず最初にすることは、現在の日本代表のサッカーを日本らしいサッカーにすることです。日本らしいサッカーとは、他の国にはない日本人の持ち味を最大限に生かしたサッカーをするということです。日本の特長は、敏しょう性や攻撃性やアグレッシブさ、細かい技術です。そして初心に戻らなければならない。そうすれば、日本人らしさが出るはずです」

オシム監督は日本人の思考能力、危機管理能力、団結力を高く評価した。選手に「考える」を徹底させ、伸ばしていった。スタメン11人を選び、フォーメーションは伝えずにピッチに送り出す。相手が1トップなら4バック、2トップなら3バックと、ボランチ阿部勇樹が中心となって自分たちでシステムを組んだ。試合中の「水をくむ人、運ぶ人、飲む人」を自分たちで考えさせた。練習時には7色のビブスを用意し、選手に選ばせて、やるべきことを考えさせたこともある。

オシム時代の代表は、だれもが複数のポジションをこなすことを当然と思っていた。水をくむ人が、時には運ぶ人になり、飲む人にもなる。決定的なパスを出すことが多かったMF遠藤保仁が汗をかいて守備に専念することも珍しくなかった。

それまで代表でレギュラーを張っていた多くの選手が青いユニホームを脱いだ。ジェフ千葉のメンバーが多く選ばれ「日本代表の千葉化」と冷やかされ、代表戦のチケットが売り残った時期もあった。だが目まぐるしくポジションを変え、相手の隙を見つけようとする「日本化」は徐々に浸透してきた。しかしオシム監督が、就任1年4カ月後の07年11月16日午前2時すぎに急性脳梗塞で倒れ、W杯で花開くことはなかった。