J1鹿島アントラーズは24日、GK曽ケ端準(41)の現役引退を発表した。茨城県鹿嶋市で生まれ、育ち、下部組織からトップに昇格してプロ生活23年。まさに鹿島一筋、多くのタイトル獲得に貢献した硬派な守護神が、グローブを置く決断を下した。

「鹿嶋で生まれ育ち、このまちに鹿島アントラーズが誕生し、始まりは1人のサポーターでした。それがユースに入り、プロになり、1つのクラブでここまで長くプレーできるとは想像もしていませんでした」。鹿島とともに歩んだプロ人生を、そう振り返った。

実家はカシマスタジアムの近くにある。鹿島のJリーグ参入が決まり、スタジアム建設が始まったのは、曽ケ端が小学校卒業間近の92年3月だった。93年5月のJリーグ開幕に向けた突貫工事。「家から、どんどんスタジアムができあがっていくのが見えたんですよ。原っぱだったところが日々、スタジアムっぽくなっていくんです。うわ、できてるなって」。

もちろん、当時はプロ入りのイメージなんて持っていなかった。注目を浴び始めた鹿島中3年時は強豪高校、鹿島ユース入りしてからも一時は強豪大学を進路に考えていた時期があった。そのたび、鹿島から声がかかった。運命に導かれるかのように。

曽ケ端は以前、かみしめるように、話していたことがある。「Jリーグが始まっていなければ、地元にプロクラブができていなければ、僕の人生は全く違うものになっていたと思います。いや、どんな人生になっていたか、想像すらできません。J創設、鹿島創設に関わった全ての方には感謝しかありません」。

98年に小笠原満男氏、中田浩二氏、本山雅志氏ら「黄金世代」の一員としてプロ入りし、01年に定位置を獲得すると名門のゴールを死守し続けた。ここ3シーズンは控えに甘んじる時間が長くなったが、腐ることなく、プロとしての姿勢を貫いた。勝利のためにGK陣と競い合い、時には手厚く後方支援した。

プロとして気高い誇りを持っていた。自らのミスで黒星を喫した試合終了直後のこと。取材をためらう報道陣に対し、「きちんと聞いて下さい。僕もプロとしてミスについて話しますから。良い時ばかりじゃないし、悪い時でも対応しますから」と言ったことがあった。プロ生活23年は、全ての責任を背負う覚悟を貫いた日々でもあった。

「鹿島アントラーズで獲得した数多くのタイトル、ともに戦った監督、選手、スタッフ、フロント、パートナー、自分と関わってくれた指導者、いつも支えてくれた両親、兄、妻、子どもたち、そしてファン・サポーターの方々、すべてが財産です。このクラブで勝利のためにプレーし、引退できることを、心からうれしく思います。23年間、ありがとうございました」。

このクラブで勝利のためにプレーし、引退できることを、心からうれしく思います-。その一言からも、素晴らしいプロ生活を全うできたのだろうと感じることができた。このように引き際を飾れる選手は一握りだと思う。曽ケ端には、せんえつながら「引退、おめでとう!」という言葉を贈りたい。【元鹿島担当・菅家大輔】