ドイツから来たプロコーチが、どんなことを教えてくれるのか。代表選手たちやマスコミもデットマール・クラマーの指導に注目した。だが、最初に始めたことは戦術でも連係プレーでもない。サッカーのイロハ。正確にボールを蹴ること、止めることからだった。東京五輪で監督を務めた長沼健が述懐する。

長沼 そんなことできるわい、と口では言っても誰もまともにできない。いまさらと思っても、できないんだから選手は従うしかなかった。

ボールを正確に蹴るには、当たる面を固定しろ。反射角、入射角を考えろ。止めるときは、地面と足で三角形のトラップ(わな)をつくれ…。クラマーは常に自ら実践してみせた。「子供に言うようにかんで含んで」(長沼)基礎をたたき込み、それを毎日反復させた。通訳兼アシスタントだった岡野俊一郎が当時を思い返す。

岡野 それまでは「正確に蹴れ」と言われても、どうしたら正確に蹴ることができるのか分からなかった。基本の理論を聞いたことがなかったから。

基礎から応用、応用から実戦と段階をあげる。だが、すぐにはうまくはいかない。するともう1度、基本練習に戻る。応用、実戦をやると基本がいかに大事かが分かった。「砂上に水が染み込むように選手の体に基礎が身についた」と岡野は言う。

クラマーは来日2カ月前、西ドイツで見た練習試合で日本の長所、短所を見抜いていた。「試合で生かせる技術は何も持っていない」。せっかくの長所である俊敏性が、宝の持ち腐れになっていた。

クラマー ドイツで教えていたようにやっては意味がない。コピーでは二番煎じにしかなれない。日本には速い選手がたくさんいる。それを使ってゴールを奪うにはどうするか。例えば、ワンツーパスでの突破だ。パスを出したらすぐに動け。それを徹底させた。当時の代表スタッフには、うまくできないならスピードを落とさせるべきという人もいた。だが、それではチャンスはない。技術をスピードのレベルまで上げなければ欧州には勝てない。

くしくも、元日本代表監督イビチャ・オシム氏は就任会見で「日本代表チームを“日本化”させることを試みる」と方針を示した。同じことを50年近く前にクラマーがやろうとしていた。

ただ、単なるサッカーの伝道師ではなかった。「クラマーが来るまで、日本にはコーチ術はあってもコーチ学はなかった」と、岡野は本場のプロ指導者の知識に感服した。それまでスポーツ現場と縁遠かった栄養学、心理学、医学、発達発育学などを指導に生かしていた。

岡野の練習前の日課は、薬局で大きなばんそうこうを買い、小さく切ってロッカーにつるしておくこと。それがテーピングだった。

岡野 ケガをなくせば、戦力低下にならない。クラマーは自分で薬を調合して塗り薬をつくったり、選手の手当てもしていた。コーチ学を日本に導入したことは、彼の最大の功績だった。

だが、それらがすぐに結果に結びついたわけではない。60年の最初の滞在が約50日間。61年は5月から約1年指導したが、その間21試合して3勝1分け17敗と前途多難だった。(つづく=敬称略)【西尾雅治】

クラマーが抜てきした長沼健と岡野俊一郎 名コンビの五輪快挙と1通の手紙/クラマーの息子たち(5)>>