1968年メキシコ五輪の9カ月前。同年1月17日、東京・国立競技場で西ドイツ五輪代表との親善試合に出場したFW釜本邦茂は翌日、相手チームの帰国便に同乗していた。日本リーグのオフを利用し、ブンデスリーガのザールブリュッケンへ2カ月間、単身留学したのだ。

実はこの計画は、釜本がヤンマー入りした1年前から用意周到に進められていた。ベテランサッカー記者賀川浩は「最初は三菱重工に行くはずだった」と証言する。だが、早大の大先輩でベルリン五輪日本代表FWだった当時関西協会理事長の川本泰三が「地元に帰って来い」と進言。ヤンマーも獲得条件に海外留学を用意して、日本のエースを迎え入れた。

デットマール・クラマーの紹介もあり、ザール州協会主任コーチだった元西ドイツ代表FWユップ・デュアバルが釜本を個人指導した。選手登録はされていないため公式戦には出場できない。練習試合のほか、ユースの選考会に出場したこともあった。

釜本 ユースの選考試合のとき、前線にパスが来ないからデュアバルに中盤をやれと言われたことがあった。そしたら今までと違う視点でサッカーを見ることができた。FWはどうしたらパスがもらいやすいのか、どう動けばいいのかが分かった。

視点という意味では、貪欲に新しい発見に励んだ。チームの寮に帰ると毎晩、暗くした部屋にこもった。クラブが保管する豊富な8ミリフィルムから引っ張り出したエウゼビオ(ポルトガル)のプレーを何本も、何度も擦り切れるまで見続けた。日本代表の欧州遠征中、66年W杯イングランド大会を観戦。得点王に輝いた「黒豹」の強烈なシュートの残像を、8ミリの映像でよみがえらせた。

釜本 ドイツ留学のときは別にバンバン練習したわけじゃない。何もしてない。要は頭の訓練をしていただけ。エウゼビオの8ミリを毎日見て、何度もリールを巻き直して、どうやって強くて低いシュートを打っているのかを研究した。

ある日、気がついた。エウゼビオは蹴る瞬間、ボールの位置が軸足の30センチぐらい前にあった。実際に試してみると芝生ではまねができても、日本の土のグラウンドでは無理だった。試行錯誤を繰り返すうちに、ボールと軸足の距離が15センチぐらいならボールが浮かないシュートが打てることを体得した。

強いシュートを生かすため、トラップから一連の動作も改良した。「欧州の一流選手は受けてからシュートまでイチ、ニーでいける。お前はイチ、ニー、サンだ。北海道熊だ」。クラマーに、そう言われ続けた釜本は留学の2カ月間で変貌していた。

ドイツから日本代表のメキシコ遠征に参加。オーストラリア、香港と転戦しながら4カ月ぶりに帰国した。数日後の4月14日、日本リーグ開幕の名古屋相互銀行戦。開始20秒、右からのパスを受け、素早く反転して強烈なシュートを決めた。「こんなに変わるものかと腰を抜かしそうになった」。取材した賀川は驚きを隠せなかった。(つづく=敬称略)【西尾雅治】

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